■ [お誘い]神奈川
神奈川で会が開かれます。お誘いします。http://manabiai.g.hatena.ne.jp/inori_k/20101026/1288110086
■ [う~ん]自己分析
私は対人関係スキルは駄目ですが、共感能力が異常に高い、と分析しています。好かれたいのに、好かれるすべを知らない。映画「モーツアルト」のサリエリの気持ちがよく分かる。解決できない、望みを持つのは辛い。
関わる人がいると、その人の幸せを願います。そして、そのために、ゴチャゴチャと、やり続けます。人知れず(少なくとも、それが実現できるまでは絶対に。出来なかったとき、落胆させるのは辛いから)。
ま、独り言です。
■ [お誘い]越後の会
12月18日(土)に上越教育大学で越後の会を開きます。西川ゼミでは、全校『学び合い』と高校での『学び合い』と僻地校での『学び合い』を発表します。http://bit.ly/gMSZBB
全校『学び合い』では、約百人の子ども達がゴチャゴチャと『学び合い』ます。そして、面白いのは、家庭科と算数等の教科学習都で学び合うのです。つまり、オーブンで焼きながら、算数を教えたりするのです。
■ [大事なこと]モデル
昨日の個人ゼミでの話題です。超難解です。このレベルとなると、理解には膨大な対話が必要なのでゼミ生しか分からないかも知れませんが。一応、メモります。
コンピュータを使って、現在の教科教育研究の概要を説明しました。まず、最も古典的なモデルでは、子どもはハードディスクです。教師というコンピュータに数十のハードディスクが繋がっています。教師はプログラムやデータを一斉に各ハードディスクにためるのです。まあ、今の心理学でこんな古典的なモデルに立っている人はまずい無いと思いますが、残念ながら教科教育学研究の大多数はこれです。このレベルに立っている研究は、そのプログラムやデータのバグを取ったり、圧縮加工して記憶容量を減らしたりすることを教科教育研究だと考えます。最も簡単な判別法は、その研究では、教材開発の部分は詳細な記載がありますが、実際に実践して、本当に子ども達が分かったかどうかの評価は皆無か著しく貧弱となっています。何故なら、保存すれば、保存されるものだと考えているからです。我々だって、ハードディスクに保存するとき、本当に保存されたかを不安になることって殆どないですよね。つまり、子どもは主体的に考え、与えられたプログラムやデータを独自に解釈・加工するという考え方がないのです。
次のモデルは、子どもはコンピュータだと考えます。そして、メインコンピュータである教師に繋がっているのです。子どものコンピュータで動いているOSや言語は一つ一つ違います。メインコンピュータでのある命令が、子どものコンピュータでは別な意味を持つ可能性があります。この考え方の場合、子どもは主体的に考え、与えられたプログラムやデータを独自に解釈・加工すると考えます。しかし、どうするか?となると限界があります。というのは、大抵の研究者は教師が教えるという鎖に縛られています。従って、大凡二つの研究になります。一つは、子どもの複雑な行動を丹念に記載し、最も古典的なモデルでは駄目だ、と主張します。しかし、代案を出せません。もう一つは、今まで典型的な指導法とは違った指導法を併用します。しかし、全ての子どもに対応することは出来ず、まあ、2、3通りの併用が限界です。さらに、実際の場面では、事前に子どもがどのような誤解を持っているかを調べなければなりません。これは研究では出来ますが、毎日の実践では出来ません。絵に描いた餅です。
『学び合い』では、教師が教えるという鎖から解き放たれています。結果として、子どもという数多くのコンピュータがネットワークを組んだというモデルを持ちます。そして、教師は個々のコンピュータを管理するのではなく、ネットワーク自体をモニターしメンテナンスすることに特化するのです。人類は、学校という組織が全くなかった100万年以上前からOSの似通った(つまり肉親)の5、6台の密接なネットワークを基本とした、150人程度(ダンバー数)のネットワークを組んで生きていました。結果として、そのようなネットワークは人類の圧倒的大多数のOSの基本性質と考えています。だから、教師はそのOSのネットワークの自己再生能力を前提に、そこのメンテナンスに集中します。
さて、ゼミ生の場合は、このレベルの話だったら理解できます。昨日の話は、その先です。ゼミ生は、子ども達の話し合いによって合意形成がされ、それが共有される、と言いました。その言葉から、あ、あのレベルで止まっているな、と思ったのでコメントしました。
先のモデルを使うと、コンピュータネットワークの中で一つのよりよいプログラムが作成され、それが全てのコンピュータ(つまり子ども)にダウンロードされるとゼミ生は考えているようです。実は、この考え方は、最初に描いた最も古典的なモデルと五十歩百歩なのです。そんな単純なものではない。さらに、よりよいプログラムが何故出来たかといえば、個々のコンピュータの中にプログラムのもととなる個々の命令が分散保存されており、それがネットワークの中で結合してプログラムが形成されたと考えているのです。ま、ジグソーパズルのようなものです。これまた、最初に描いた最も古典的なモデルと五十歩百歩なのです。
実際は、どのコンピュータ(つまり、子どもも教師も)の中に、最終的に形成されるプログラムのパーツはありません。でも、よりよきものが生成されるのです。何故か、それは個々のコンピュータのデータによるものではなく、ホモサピエンスに共通しているOSの特性によるからです。おそらく、個々の子どもや教師のデータで見ても見れないものが多い。
では、どうするか、上位の視点でデータを見るべきです。例えば、水分子の動きを個々に記載しても、コップに水を注げばどうなるかは分かりません。しかし、水というレベルで観察すれば、一定以上の時間がたったときの状態は小学生でも分かります。
ふ~。一気に書きましたが、ゼミ生も頭を抱えていました。ま、そうです。プロの教科教育研究者も殆ど気づいていないことですから。
■ [ゼミ]彼女
ゼミの男子学生には、「今の彼女が、お前の生涯に出会える最高の彼女である可能性が高い。だから、絶対に大事にしろ。土下座してでも。」とよく言います。昨日のゼミで、「何故ですか?」と聞かれたので、以下のように説明しました。
私:君は何歳までに結婚したい?
学生:30までには結婚したいです。
私:では、35歳まで拡大しよう。つまり、あと15年間のうちに結婚するとしよう。学校の先生は忙しいので、出会えるとしたら同じ学校である可能性が高い。
学生:頷く
私:5年で1校を異動するとしたら3校だ。さて、小学校の職員は十数名だよね?(上越地域やその学生の採用希望地はそうです)
学生:頷く
私:(中学校志望の学生に向かって)中学校は職員数は多いが、女性職員より男性職員が多いというハンディがあるんだよ。(その学生は頷く)だから、中学校でもだいたい同じ仮定に立てる。
私:1校で、5年間で出会える、君の結婚可能性のある女性は二人ぐらいに見積もっても良いだろう?
学生:頷く
私:ということは、君は35歳までに2×3の6人の女性の中から伴侶を選ぶことになる。
学生:頷く
私:じゃあ、今の彼女は、どれだけの人数の女性から選んだ?(本学は学年160人で半数以上が女性です。従って、前後の年代を含めて約300人の中で選んだことになります)
学生:至極納得して頷く
私:従って、今の彼女を大事にしなさい。
追伸 このようにごく少数の仮定の下に見積もることを物理では第0近似と言います。物事をおおざっぱに理解するには非常に有効です。理学部の学部で学んだ大事な考え方です。多少のずれはありますが、桁のレベルでは十分に安定した結果を得られます。
実は、大学卒業後も出会いはあります。私もそうでした。しかし、今の彼女を大事にすることを説得するためのレトリックです。