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2010-12-12

[]解決策 22:34 解決策 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 解決策 - 西川純のメモ 解決策 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 大抵の善意の教師は解決策を想定し、そこに学習者を導こうとします。でも、私はそうしません。だって、そんな凄い教師じゃありませんから。

 私がやるのは、それを解決する必要があることを学習者集団に認識させ、それを求めることです。私は出来なくても、学習者集団は出来ると私は信じています。仮に、それが学習者集団が出来ないなら、私なんぞが出来るわけ無い。

 学習でも、生徒指導でも、解決には膨大な会話が必要です。それらのは教師主導では絶対に出来ない。子どもは多様です。教師の能力は限られています。出来るとしたら、学習者集団です。

[]べき乗則 22:24 べき乗則 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - べき乗則 - 西川純のメモ べき乗則 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 自然現象を記載する分布として有名なのは正規分布です。でも、実はもう一つあります。それはべき乗則です。べき乗則が支配している現象では、典型的もしくは特別な現象はありません。その現象をミクロで見ようが、マクロで見ようが、そこを支配しているルールは同じで、分布は同じです。ありとあらゆる自然現象に現れるのですが、視覚的に現れているはフラクタル幾何です。

 この思考方法は、私の基本的な思考方法です。現実の直近の問題だと、個々のことに囚われてしまい、本質を見失いがちです。例えば、自分のゼミのことを悩むと、個々のことを思い浮かべ自分を合理化してしまいます。でも、自分を合理化して出口があれば良いのですが、出口はありません。結局、出口を探るためにはシンプルな基本に戻らなければなりません。そんなとき本当にありがたいのは全国各地からの質問メールです。人からの相談に対してはシンプルな原理原則に基づいて、シンプルな解決指針を返信します。それが毎日続いているのです。結果として、私が自分のゼミのことで悩んだことと同じような相談メールに対して、私がどのように応えているかを思い出すのです。

 最初は、「今回の事例は○○からいって、あの返信とは違う」と一生懸命に合理化するのですが、結局むなしい。だって、そのような合理化からは何も生まれませんから。結局、人様に「偉そうに言っている」自分のアドバイスを自分に向けて語り、嫌々ながら納得し(?)、実行します。結局、シンプルな原理原則が有効だと再確認します。

http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20070925/1190724156

[]山梨 19:15 山梨 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 山梨 - 西川純のメモ 山梨 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 ここでも同志が進めています。心強い。http://manabiai.g.hatena.ne.jp/mbiymn/20101212

[]日本を変える 19:09 日本を変える - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 日本を変える - 西川純のメモ 日本を変える - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私はゼミ生に、我々は日本を変える集団だ、と語り、求めます。ま、「何言ってんの?無理じゃん」と思うのが普通です。が、私は信じています。これに関しては説明が必要ですね。

 権力者は日本を変えられるが、一般市民は変えられないと思いますよね?でも、思い出してください。ここ十代の日本国首相を思い出してください。名前を思い出せますか?そして、その人がやった「日本を変えたこと」を思い浮かべられますか?おそらく、十人を思い出せなかっただろうし、思いさせたとしても、その人がやった「日本を変えたこと」を思い出せない人ばかりではないでしょうか?

 日本は1億人以上の巨大組織です。そのトップが何らかの命令をしたとしても、それを実際に行うのは人です。例えば、十のことをやったとしても、それが閣議で大臣に伝わり、それが事務局長、局長、課長、課長補佐、係長という本省のラインで伝言ゲームをすることになります。そして、各段階では上の命令を解釈する部分があるのです。もし、解釈で0.9倍にしたとしたら、10段階の伝言ゲームをすれば、3分の1になってしまいます。その伝言ゲームは、地方の行政組織に伝わるのです。結局、日本国首相であったとしても、それを実現する末端までの数多くの人の協力がなければ何も出来ません。

 41歳の私は平成12年に学習臨床コースを立ち上げました。そして、49歳の私は平成20年に教育実践専攻を立ち上げました。私がそれを出来たのは何故か?私が願っていたことを、大事であり実現すべきだと思っていた、職階の高い人がいて、そのために必要な各種な書類を一緒に作ってくれた仲間がいたからです。その数は、決して多くは必要ありません。でも、様々な立場のやろうと思う人が一定数必要です。そして、どの集団にもそのような人はいます。

 つまり、職階が上がれば、権力を持てば大きなことを出来ると思う人は、永遠に何も出来ません。何かを成す人は、どんな職階であったとしても、様々な人と繋がりながら、自らの夢を語ります。そして様々な人と繋がりながら、自らの願いを洗練させます。そんな人が願いを叶えます。

 無理と思う人は、「自分が無理」と思っているから無理なんです。でも、私は出来ると思います。なぜならば、私は「我々は出来る」と思っているからです。

 日本を変えろ、とゼミ生に語っている私は毎日何をしているでしょうか?非常に、規則正しい生活をしています。

 6時に起床です。直ちに着替えて家のカーテンを開けます。6時10分ごろ、まだ眠りたい、と言っている息子の布団をはがし、コチョコチョとくすぐります。家内が朝食と私の弁当づくりを始める頃に、息子の朝学習(ベネッセ)をチェックします。その合間に、メールチェックをします。7時10分ごろに息子と朝食開始、7時30分ごろ朝食終了。息子の仕上げ磨きをして、制服に着替えさせます。7時45分に家の前に集まる近くの子どもを学校に送り出します。直ちに車に乗って大学へ。8時に大学到着。直ちに、メールチェックをします。この時間帯までに、全国からの質問メールに応えます。11時30分に学食に行きます(50分には授業がおわり、混みますので)。11時50分に食べ終わり、メールボックスに手紙を取りに行きます。12時から2時半ぐらいまで学内の書類づくりやブログをアップします。2時半ぐらいに学生さんのいる場所でお茶を飲みながら馬鹿話をします。3時半ぐらいに研究室に戻り、メールに返答をします。6時ぐらいに院生さんの場所に行き、本日、問題がなかったかを確認します。6時45分に帰宅です。7時に自宅に着きます。直ちに息子に体温をチェックさせ7時10分ごろに風呂に入ります。風呂から上がって、息子の髪の毛を乾かします。息子がテレビを見ている脇で、メールに返信します。7時45分ぐらいに夕食開始、8時半ごろに終わります。その後、息子の仕上げ磨き、パジャマを着させ、8時50分には布団に入れ、添い寝です。9時40分頃に添い寝から出て、メールチェックをします。その頃、家内は風呂に入ります。10時半頃、髪を乾かした家内とテーブルでゴチャゴチャと話します。10時45分頃、メールチェックをして、11時就寝。

 私の1日は基本的に上記の繰り返しです。そして、私の過ごしている時間の最も多くの時間を費やしているのは、全国の見知らぬ人からのメールに返信すること、そして、このブログにアップすることです。ごく普通のことを毎日、毎日、やっています。今まで私に質問メールをした方だったら知っているはずです。一度たりとも、不誠実に返信したことはありません。ときにはA4版で5ページ以上のメールも書いています。そして、きわめて早く返信しています。それをずっと十年以上続けています。

 どこに劇的なものがあるでしょうか?なんもありません。でも、この毎日の積み上げが日本を変えることであることに確信を持っています。現在、関西で『学び合い』が広がったのは、見ず知らずの3人の学生さんが土曜日に突然合いたいと言ってきたので2時間ほど話をしたことが原因です。現在、神奈川で『学び合い』が広がったのは、一人の大学生の方が、『学び合い』をみたいと言ってきたので相手をしたからです。宮城で『学び合い』が広がったのは、『学び合い』の会場で私に議論をふっかけた相手に、最後まで説明し続けたからです。福岡で広がったのも、高知で広まったのも、メールでの質問に最後まで返信しつつけたからです。・・・・・・。全部、全部、聞かれたら、頼まれたら、自分の出来ることをした、というだけのことです。

 そういう人たちが全国にいます。直に合うのは年に1度ぐらいかもしれません。いや、1度もない人もいます。でも、その方々の息づかいを私は感じています。それぞれの人がネットワークなり、その人たちが出来ることをやっています。一人一人のやっていることは劇的なものではなくとも、それらの積算したものは大きなものになります。さらに、1+1が2ではなく、4にも6にもなることを知っています。

 ゼミ生には、日本を変えることは凄いことをすることではない。自分の出来ることがあるはずだ。それをやればいい、と言います。例えば、ブログやミクシーでも良い。アマゾンの書評に書き込みをすることでも良い。知り合いに話すことで良い。どんなことが、その後に大きな変化を引き起こすか分かりません。そして、それが大きな変化を引き起こすことがなくても、もし、一人の教師の心に届けば、数百、数千の子どもに意味あることを成していることであり、尊いことであるとかたります。

 私はゼミ生に意図的に広い範囲の同志と繋がる機会を与えています。そして、彼らの成果がより広い範囲に影響を与える場を提供するよう政治をします。彼らは、今、数人の学生が学校を変え、地域を変えることが出来る可能性を感じ始めています。私が求めた日本を変えると言うことは、あながち荒唐無稽ではないと確信する学生が増えつつあります。

 つまり、日本を変える、というのは荒唐無稽ではないのです。「自分」と思えば、それはそうです。そして事実です。日本国首相だって無理です。でも、「我々」と思えば、それは不可能ではないのです。ポイントは自分ではなく「我々」なんです。

 では、出来るとして、何故、それを私はゼミ生に求めるか、そして自らにそれを課すか?それは、「得」だからです。一人の子どもに拘っている限りは出口はありません。むしろ一人も見捨てない集団を作ることの方が可能性はある。

 考えてみてください。日本を変えるということを大学生や現職者に言ったら、荒唐無稽と思いますよね。でも、クラスの子どもに一人も見捨てずに、と求めることは子どもにとっては同じように荒唐無稽です。だって、クラスと言ったって、話したことの殆ど無い子どもは少なくない。ハッキリ言って嫌いな子どももいます。ましてや異学年学習で百人を超える集団で『学び合い』、一人も見捨てるなと言ったって荒唐無稽だと思います。

 単学年の『学び合い』をしていると、「○○ちゃんは言っても聞いてくれない!」と涙ながらに教師に訴える子がいます。そして、保護者に先生が手抜きしていると訴える子がいます。十中八九、特定の一人、もしくは数人が「お世話係」になってしまった場合です。また、異学年学習で「教えるばかりで自分たちの勉強にならない」と訴える高学年がいます。これまた、高学年の数人が「お世話係」になってしまった場合です。残念ながら、それらの原因は、個にこだわっている教師の心なんです。とにかく、気になる子を世話する子がいて、なんとか問題が解決しているならば、それはありがたいという気持ちです。これを解決するためには、みんなが実は得であるということを語らなければなりません。

 そして、子どもたちは、その語りを聞いて、その教師の「腹」を探ります。考えてみてください。異学年の『学び合い』をしている教師が、「自分のクラス」のことばかり考えていたら、どうでしょうか?単学年の『学び合い』をしているとき、「気になるあの子」のことばあかり考えていたらどうでしょうか?ばれてしまいます。では、異学年の『学び合い』の時、その異学年のことを考えていたらOKでしょうか?私はそう思いません。おそらく、仲間や同僚だったらOKでしょう。でも、管理職とは認めてくれません。自分たちより上の次元で考えられ、それを自分たちの次元に矛盾無く繋げられるからこそ管理職と認められ、その管理下で動くのです。これを校長に置き換えれば理の当然ですよね。

 私は教師としては西川ゼミが高い成果を上げ続けることが求められています。そして、今、西川ゼミは二十代そこそこの学生も、学校をどうあるべきかを考えねばならない課題を持っています。いや、学校同士をどのように結びつけるか、学校と地域をどのように結びつけるかを課題としています。なれば、彼らに「日本を変える」という課題を与えるのは必然です。そして、彼らにそれを私が求めるためには、私自身の言動がそれに矛盾無いものでなければならない。そして、彼ら以上の視点で課題を考えられねば管理職として認めてもらえない。

 長々と書きましたが、以上に書いたことが、『学び合い』の学校観と子ども観に一致していることはお分かりだと思います。その「多様な」という言葉、「有能である」という言葉の意味が高いレベルなのです。もし、子どもにそれを求めるならば、教師もそれに矛盾しない言動をすべきです。でも、無理ではないのです。自分でやるのではなく、みんなでやればいいのですから。そして、それが得なのです。多様・有能であるという言葉の意味を限定的に考え、それで問題が解決される方ならばどうぞ。でも、スーパーマンでない凡夫である私はそれが出来ないから『学び合い』をやっています。

追伸 ふ~。このメモを書くのに、1時間ほど費やしました。こんなことを続けることが、私のやれることです。なお、突っ込まれる前に自白しますが、私が完璧にやっているかといえは、そうではありません。でも、そうあるべきであるということは分かっており、出来ることを迷いながらやっています。