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2010-12-16

[]このレベル 16:42 このレベル - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - このレベル - 西川純のメモ このレベル - 西川純のメモ のブックマークコメント

 Kさんの記事(http://manabiai.g.hatena.ne.jp/F-Katagiri/20101216/p1)を読んで、「そうそう、このレベルの議論をしたいな~」っと思いました。

 結局、色々な議論で、「それって子どもの能力を見くびっていない?」とか「で、あんな一人で出来るの?」とか「それって、大人になって本当に役立つこと?」とかで議論したいと思います。そうすれば、議論もすっきりして、事の是非が明らかになると思います。もしくは、どのようなところの前提が違うのかも明らかになります。建設的な議論になる。

[]越後『学び合い』の会 09:43 越後『学び合い』の会 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 越後『学び合い』の会 - 西川純のメモ 越後『学び合い』の会 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 日本には数多くのへき地小規模校があります。そこでは、渡り、ABカリキュラムという無茶苦茶な荒技が行われています。子どもの人間関係も閉塞し、教師も校務過重です。出口があります。お誘いします。http://manabiai.com/echigo

[]こういう人「も」必要です。 09:04 こういう人「も」必要です。 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - こういう人「も」必要です。 - 西川純のメモ こういう人「も」必要です。 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 最近、遠方の大学生さんから質問メールが来ました。その質問は、『学び合い』が広がり一般的になったとき、その時の『学び合い』が分かるとはどういうことを指すのか?という内容です。その質問の意図は、どう考えても全員が『学び合い』の考え方を理解しているという状態を想定できない、というものです。

 私は、文化は書の中にあるのでも、頭の中にあるのでもなく、人と人との間にあることを書きました。そして、役割の分化が起こるであろうことを言いました。私は二十年弱前に、家内の両親に初めて会いました。ま、「お嬢さんを下さい」というやつです。私の生まれ育ったのは東京です。一方、家内の両親は完全な仙台っ子で、お父さんの言葉の3割ぐらいは意味不明です。しかし、2時間後には、お互いべろんべろんに酔っぱらって、げらげらと笑いあっていました。それは話が通じるからです。最初の話題は、だじゃれです。笑いというのは高度にその国の文化に依存するものです。また、出された料理のことで話は盛り上がりました。当然、仙台の料理は初めてでしたが、何に心を込めてつくってくれたかは分かります。仕事のことでも、何が良しとされ、何が駄目とされるかは一致しています。しかし、私も仙台の両親も、「日本のだじゃれ概論」、「日本料理の基礎と応用」、「日本仕事論」などという講義は受けていません。でも、一致しているのです。それらは、色々な人との関係の中で学ぶものであり、それが一致しているからです。

 大学は、大学設置基準、大学院設置基準という法律によって動かされています。おそらく、それらを読んだ大学教員は1割もいないはずです。無味無臭の法律用語で書かれた至極、シンプルな法律です。ところが、その設置基準の別表のほんの少しの表現が変わっただけでも、多くの大学教員の人生を変えるほどの影響力があります。それらは文部科学省のどこかの部屋で、百年の大計の中でさりげなく変えられます。頼もしくも、恐ろしい話です。だから、大学の中には、そのさりげない変更を見いだし、その意図を想像し、それに対応すべき道を考える人は、少数であっても絶対に必要です。

 現在、『学び合い』でごく普通に行われている立ち歩き、私語も『「学校は、多様な人とおりあいをつけて自らの課題を達成する経験を通して、その有効性を実感し、より多くの人が自分の同僚であることを学ぶ場」と「子どもたちは有能である」』という基本に基づいて、形成されたものです。ちょっと前まで荒唐無稽と多くの同志から思われていた、異学年の『学び合い』だってそうです。指導要領を子どもに見せることに拒否感をお持ちな方も少なくないでしょう。でも、「子ども達は有能である」というレベルで議論すべきものだと思います。そして、指導要領を子どもに公開することの有効性と機序に関しては、学術データと実践データによって裏打ちされているので、思いつきで述べているわけではありません。

 しかし、それに対して拒否感をお持ちな方を否定するわけではありません。従来指導型『学び合い』の手引きの最初に書いたように、「変われないのも芸のうち」だと思います。そのような人たちが日本の教育の不易な部分を守ってくれている。で、も、そうでない人「も」必要なのです。つまり、自分自身の経験や常識に囚われず、正しく情報を収集し、対話をしながら、経験や常識を乗り越える人「も」必要です。これが私が必要であると考える第一の人です。

 第二の人は、身近な繋がりを越えた繋がりを持てる人です。ホモサピエンスは、基本的に極狭い人間の関係にクローズする傾向があります。それらは、教育によって乗り越えることが出来ますが(その一つが『学び合い』)、本性は変わりません。しょうがありません。でも、それでは困るのです。スモールワールド仮説(http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20100928/1285663648)があります。この仮説は、かなり正しいと思います。簡単に言えば、世界は案外少ない人の繋がりで繋がっているということです。例えば、知人の結婚式の披露宴でたまたまあった見知らぬ人と話したら、共通の友人がいることを知り、話が盛り上がると言うことはありますよね。また、新幹線の速さより早くうわさ話は広がります。これは、一対一のコミュニケーションの積み上げでは絶対に出来ません。ポイントは離れた集団同志を繋げる人の存在なんです。この人はそれほど多く入りません。でも、一定数以上いないと、集団が小さいサークルに陥ってしまうのです。現在、県外出張でどこかの同志の授業をみたいと思ったとき、どうするでしょうか?かなりの割合は私の所に「誰かいませんか?」とメールするのではないでしょうか?最近では地域ごとの繋がりも出来ているので、数百キロレベルだったら、県外でも自分で繋げられる人は多くなっています。でも、千キロを超えるレベルで自ら繋げられる人はかなり限られています。繰り返しますが、基本は狭いエリアで結構です。でも、それを越えたネットワークを繋げられる人が一定数以上いないと、日本レベルのネットワークが機能しないのです。これが私が必要であると考える第二の人です。

 第三の人は、駄目もとの人です。『学び合い』は「お上」からのお達しではありません。本格的に広げようとして5、6年ぐらいしかたっていません。そして、健全な常識をおもちな方からはクレージーと思われることをやっているのです。すんなり分かってくれるわけありません。でも、分かってくれる人も、少数ですが絶対にいるのです。その人を見いだし、その人と一緒にやれば、次の一手が見える。でも、次の一手が何であるかは今の段階では分からないのです。とにかく、駄目もとでもいいから、多様な方法を柔軟にやり続ける必要がある。でも、常識的であったり、疲れていると、「無駄」ということが頭から離れません。しょうがありません。そういう人が大多数であることを否定しません。集団全員が丁半ばくちをやっているのは不健全です。でも、少数でもそういう人が必要なのです。現状は、そういう人が作り上げているのです。

 10年後には、意図的に思わなくても、自然発生的に集団の中に上記の3つのタイプの人が一定数生まれます。しかし、集団が小さいとき、揺らぎのレベルでそれが不足することが生じるのです。現在、そうだと思います。だから、嫌われても、それを求めているのです。全員でなくてもいい、3つのタイプを兼ねなくてもいい、でも誰かはいて欲しい。

[]強迫観念 06:57 強迫観念 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 強迫観念 - 西川純のメモ 強迫観念 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は映画のジャンルでは、SF、歴史大河、アクション系が好きです。理由は子どもがあまりでないから。子どもの出る映画は、最後はハッピーエンドになっても、前半でお涙ちょうだい的な部分がある。しかし、私はそれが耐えられない。ニュースも、児童虐待のニュースが流れたら、5秒でチャンネルを変えます。家内の話は黙って聞くことにしていますが、その手の話題が出たら、「それは勘弁して」と言います。とにかく駄目なのです。私の現場教師経験は2年だけですが、おそらく、平均的な教師の出会う、鬼畜のような保護者の一生分は出会ったと思います。だから、ちょっとした言葉、シーンで、それを超リアルにイメージして、それが頭から離れないのです。そして、我が子を持つようになって、その愛しさをリアルになるにしたがって、病的にまでなりました。

 1週間ほど前のことです。院生さんの控え室に、子どもの写真がありました。その子は、『学び合い』によって救われた子です。とても良い笑顔です。が、不覚にも、ボロボロと涙が溢れ、嗚咽が出て止まりませんでした。幸い、その時は院生さんがいなかったので、みっともない姿を見られなかった。

 日本中のどんなクラスにも、地獄のような毎日を過ごしている子どもがいることを知っています。私も含めて、教師になる人の大多数は、それを経験していない。もちろん、みんな悩んで、中には自殺を考えたこともあるかもしれません。しかし、それより重篤で、出口が無く、その苦しみを24時間受けている子どもがいます。何も出来なくとも、その子に1週間に数時間でもほっとできる時間を与えたら、1週間に数時間でも人としての尊厳を与え、自己効力感を感じさせてあげられたら・・・。どれほど救われるでしょうか?それだけでも、自殺をとどめられ、人生を誤らずに出来る可能性は驚異的に高まると信じています。だから、笑顔の子どもを見たとき、学校が担任が『学び合い』から手を引いたとき、どうなるだろうと考えたのです。そして、『学び合い』の無いクラスで、地獄の毎日を暮らしている子どものことを思うといても立ってもいられない。

 映画やニュースと同じように、チャンネルを変えなければ耐えられない。必死に、そのイメージを振り払おうとします。しかし、イメージは消すことは出来ても、事実は残ります。だから私は、自分の出来ることを常にやります。そして、自分の周りだけではなく、日本中の全てに自分が出来ることを考え、します。そうしないと苦しくてしょうがいない。そうしない自分を許せないのです。