お問い合わせ  お問い合わせがありましたら、内容を明記し電子メールにてお問い合わせ下さい。メールアドレスは、junとiamjun.comを「@」で繋げて下さい(スパムメール対策です)。もし、送れない場合はhttp://bit.ly/sAj4IIを参照下さい。             

2011-04-03

[]正義 19:12 正義 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 正義 - 西川純のメモ 正義 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本屋でサンデル教授の講義録の本を見つけた。立ち読みして面白かったので、買って読んだ。非常に分かりやすく、今までの思想史をコンパクトにまとめていたのでするりと読めた。が、途中から飽きてしまいました。理由は、サンデル教授の基本的前提が私と違うので、心の中で「そりゃ違うな」という心の声が繰り返し私にささやくのです。

 サンデル教授が様々な過去の正義の考え方を紹介し、その是非を論じている様子が、現状の教育論争の同じに見えるのです。両方とも「正しい」正義があり、「正しい」指導法があると暗黙に仮定し、それは何かを求めているようです。でも、私は、そんなの無いと思います。ある場面では正しく、ある場面では正しくないし、ある人には正しく、ある人には正しくないと思います。第一に、正義に関して我々は原理原則に立ち戻って考えることは殆どしません。なんとなく正しいと直観的に判断し、なんとなく正しくないと直感的に判断します。サンデル教授が巧みな話術と論理で導いても、「理屈は分かるけど、でも違うと思う」という人はいます。

 では、私は正義をどう考えるか?それは生物群集のようなもののように思います。一人一人は「これこれは正しい」、「これこれは正しくない」という文脈に依存した判断群を持っています。それらは必ずしも原理原則にまとめられていません。あくまでも判断群なのです。それはDNAの様々な遺伝子コードのようです。そして、その判断群は、準拠集団と言われる深く関わる人の影響を受けます。あたかも生物群の中でここの生物が生殖を通じてDNAを交換しているようなものです。そして、生存競争の中で淘汰を受けます。つまり現在の正義とは、人類の歴史の中で生き残った渾然とした判断群の集まり(個人)の集まりだと考えています。

 個人の中での判断群は必ずしも相互に論理的に整合するものではありません。ましてや個々人ごとの判断群は論理的に整合するものではありません。おそらく重なっているところはあるでしょう。でも、どの判断においてもそれを含まない個人はいます。例えば、ホモサピエンスのどんな特徴をあげても、そうでないホモサピエンスがいるのと同じようなものです。

 ですので私がサンデル教授のような授業を組み立てるとしたら、自由主義も功利主義もリバタリアンも全員を正しいと納得させることも、全員が間違っていると納得させることも出来ないことを議論の中で深めて、結局、その次元で議論しても実りがないことを議論するでしょうね。そして、ようはさまざまな正義を持っている人・状況の中で、どのように「おりあい」をつけることが集団として、そして個人として有利かを説くでしょう。

 では、それは何か、私は「多様な人間と折り合いをつける」と考え、そして多様な人間とは一人の例外もなく全員だと私は考えています。それが仮説です。その仮説を共有する集団が次世代を担うと考えているのです。それが私の考える「正義」です。

追伸 本を読みながら、今年の学部の授業はサンデル教授のような授業をしたくなりました。私が理科コースにいたとき、やっていた形式の授業です。学びの共同体の教師と同じように、最高の話術と最高の教材能力と頭の回転がある教師のみが実現できる授業です。非常に大変ですが、それが出来る教師とっては一番教師が楽しめる授業です。しばらくやっていないので、それが出来る力量が維持されるか不安ですが、本を読みながらやりたくなりました。禁断の果実です。

 何故『学び合い』でやらないかって?そりゃ事情があるんですよ。あははは。もちろんゼミでは完全無欠の『学び合い』で運営しています。

[]整理 08:42 整理 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 整理 - 西川純のメモ 整理 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 『学び合い』は「一人も見捨てない」という願いから発しています。そして、「学校は、多様な人とおりあいをつけて自らの課題を達成する経験を通して、その有効性を実感し、より多くの人が自分の同僚であることを学ぶ場」という学校観、「子どもたちは有能である」という子ども観、「教師の仕事は、目標の設定、評価、環境の整備で、教授(子どもから見れば学習)は子どもに任せるべきだ」という授業観に基づいています。『学び合い』の全ての実践はこの4つに集約できます。しかし、理系の私はこれでも複雑すぎると考えていました。

 『学び合い』の研究史からいえば、もともとは子どもに任せる授業をすることによって、子どもたちの有能性を知り、どこまで子どもが有能か、どこまで任せられるかということを突き詰めていきました。つまり子ども観と授業観の往還によって『学び合い』は形成されていきました。その中で、どのように子どもに「語るか」を磨いていたのです。

 クラスの中には多様な子がいます。能力的に障害のある子、人間関係の障害のある子もいます。でも、どのような子がいてもそれを排除しない、つまり「一人も見捨てない」ということが最終的には集団の維持に重要だと分かってきました。つまり「多様な人間と」が大事であると言うことが分かりました。そして、多くの場合、仲良くなりますが、「仲良く」を求めると無理が生じることが分かり、「おりあいをつけて」の重要性が分かってきました。そして、利他的なものでは1ヶ月半以上は続かないことがわかり「自らの課題」の重要性、つまりエゴイズムに矛盾しないことが分かりました。このような家庭の中で学校観が生まれたのです。そして、私が上記を求め続けた根源的なものが「一人も見捨てない」ということが強く意識化したのです。ここに至るまで、十数年かかりました。

 さて、これを理系的にシンプルにまとめると、以下のようになると思います。

 最も重要なのは「多様な人と折り合いをつけて自らの課題を解決すること」が最強の戦略であるという仮説だと思います。これは教育に限らず、組織運営の最も基本とすべきものと私は考えます。それを教育において適用したものが学校観です。そして、これを企業経営に適用すれば、ドラッカーやリッカートの示したものの根幹が見えると考えます。

 「多様な人と折り合いをつけて自らの課題を解決することが最強の戦略」という行動原理と、「一人も見捨てない」という行動原理は実は同じだと思います。安易に見捨てるならば、多様な人と折り合いをつけることができません。ダンバーの仮説によれば、我々は150人程度の人と折り合いをつけることが出来る生物です。これはホモサピエンスの歴史の99%以上はこの数以下のコミュニティーの中にいました。そして、そのコミュニティーのメンバーを安易に切り捨てた群れは淘汰されます。私を突き動かすもの、そして多くの教師を突き動かす「一人も見捨てない」という願いは、「多様な人と折り合いをつけて自らの課題を解決すること」を人の本性の中に組み込んだプログラムなのです。先に述べたように、もともとの学校観は、「一人も見捨てない」という願いの集積の中で形成されたものです。

 さて、「多様な人と折り合いをつけて自らの課題を解決する」ことが最強の戦略であると考え、「一人も見捨てたくない」と思った教師が「おりあい」をつけるべき「多様な人」とは誰でしょう?それが子どもたちなのです。「一人も見捨てたくない」という教師の課題を達成するために必要な「多様な人」であるという考えることが「子どもたちは有能である」という子ども観です。これが企業であれば、「部下」ということになるでしょう。

 この子どもたち(部下たち)を有能と考え、授業(仕事)を任せたときに現れる授業(仕事)が授業観(仕事観)なのです。

 「教師の仕事は、目標の設定、評価、環境の整備で、教授(子どもから見れば学習)は子どもに任せるべきだ」という表現は一貫していますが、実は、これが実際に示す内容は毎年変わっています。初期の段階では、クラスをイメージしています(おそらく多くの同志はそうかもしれません)。しかし、この授業観はクラスを超え、異学年や特別支援学級を包摂した学校をイメージしています。そして、今(平成23年度段階)では学校群をイメージしています。やがて日本全体を有機的にネットワークで結ぶことに繋がります。

 また、目標も初期段階では日々の課題をイメージしています(おそらく多くの同志はそうかもしれません)しかし、現在は、それは単元レベルの課題をイメージし、学期レベルをイメージしています。おそらく、多くの同志には共感してもらえないかもしれませんが、私はありありとイメージできます。小学校の入学式に校長が新入生に「この6年間で、君ら全員はどのような大人になりたいかを考え、その大人になるために最善を尽くしてください。」と訓示します。そして「さあどうぞ」と6年間任せるのです。中学校も高校も同じです。「そんな馬鹿な」と思うでしょうね。でも、思い出してください。少なくとも教師は「志望校に入る」、「教員として採用される」という抽象的で短い目標の下に、1年間以上の複雑で継続的な学習を続けたはずです。そのような人は2割以上は必ずいます。その人たちが「一人も見捨てない」と願い行動したら上記は実現できます。

 では、今の段階での「目標」とは何でしょうか?それは「一人も見捨てない」ということです。我々は大部分の人と折り合いをつけることは可能で、そして、それは喜びに繋がります。だから、教師は何もしなくても成立します(それが導入段階です)。しかし、一人も見捨てないことを徹底することは教師の力が必要です。

 つまりまとめると以下のようになります。

 「一人も見捨てない」という願い←→学校観

                 ↓

                子ども観

                 ↓↑

                授業観