■ [大事なこと]一人も見捨てない
『学び合い』は3つの考え方に集約できます。それは皆短いことばで表現できますが、もし、一言で表現しろと言えば、「一人も見捨てない」という言葉に尽きます。この言葉に対して、色々な教師の反応があります。最初に言いますが、圧倒的大多数の教師は善意の人です。
「一人も見捨てない」と言われて、その通りだと思う反応の方もいますが、「見捨てたって良いじゃないか」という反応の方います。タイプ1としましょう。このタイプの方の圧倒的大多数は「見捨ててもたいしたことないじゃないか」という方です。
残念ながら、見捨てられた子どもがどれほど悲惨かと言うことに鈍感なんです。昔の田舎の学校だったら、勉強が出来なくても教師も同級生も、そんなもんだと思っていました。そして当人もです。でも、そんな牧歌的な教室がどれほどあるでしょうか?
さて、「一人も見捨てない」という方にも、自分が一人も見捨てていないと思っている方と、そうでない方がいます。前者をタイプ2としましょう。この方は子どもの見取りが弱いし、相手の状況を想像する力が弱いのでしょう。
次に、「一人も見捨てない」と思っているが「見捨てていると自覚している人」これが日本の教師の圧倒的大多数です。その人たちは、自分の出来る範囲で何とかしたいともがいています。例えば、家族の時間を犠牲にしてでも、放課後に子どもを残して教えている先生がいます。
さて、ここで『学び合い』というものがあることを知ります。大多数の健全の教師は「そんな馬鹿な」と思います。タイプ3としましょう。この場合は、まったくトライしないか、中途半端にしかトライしません。私が「これを飲めば痩せます」という宣伝を読み捨てるようにです。
今の段階で、そのタイプ3の人の原因はアンテナが弱いからです。逆に言えば、我々の情報発信が弱いからです。
さて、『学び合い』にトライする方がいます。概ね2タイプです。タイプ4は余裕のある方です。つまり、「ま、間違っても、いくらでも修正できるから試しに」という方です。
次に、とことん追い詰められて藁をもすがるつもりでトライする人です。これも二通りあります。基本的に追い詰められて自分が苦しいのが耐えられないのは同じですが、「自分が耐えられないからトライするの人」(タイプ5)、「子どもが辛いのを見るのが耐えられないからトライする人」(タイプ6)です。
両者の違いは、なにか不都合があった時の退勢が違います。タイプ5の人は自分の辛さが原因で始めたのですから、自分が辛くなると子どものことは目をつむります。その代わり、タイプ6の人は、とことん自分を追い詰められます。
では、どうするか。とりあえずタイプ1および2の人はどうしようもありません。周りがやりだせば、あわせるでしょう。タイプ3の人に対しては、我々が情報発信を強めるしかありません。
タイプ5と6は程度の差です。私も、昔はタイプ3ですし、今は、タイプ5と6を揺れ動いています。これに対しては、二通りの道があります。
第一は、『学び合い』を徹底的に理論的に学ぶべきです。私が揺らいでも、最終的にはぶれないのは数々のデータによって構築した理論の正しさを確信しているからです。パーフェクトではなくとも、ベターであることを疑ったことはありません。少なくとも、愚かな自分よりは優れていると思っています。
これは、望ましいのですが、これをちゃんとやる余裕の覚悟のある方はそれほど多くない。二百ページを超える手引き書の完全版を読んだり、ましてや3種の手引き書を読まれた人がどれほどいるでしょうか?でも、それはしょうがないと思っています。だから、手引き書に書いたことを質問されても丁寧に応えています。
結局、根本的で安定した解決策は、仲間を増やし、『学び合い』を実勢することに対する軋轢を少なくし、自然に実践するようにするしかありません。そして、その方法は、現状でも仲間になってくれる人を見つけ、サポートすることです。
迂遠なようで、それほどかからないと私は思っています。
■ [大事なこと]私
今現在、院生さんはアドバイザー(指導教員)を選ぶ時期です。この間の学生さんの行動、そして結果をは非常に興味深いです。
かって、私は理科コースに所属していました。その際、「卒業研究」の「指導教官の第一志望と第二志望を学生さんに書かせていました。そのころの理科コースには物理学、化学、生物学、地学の教員がいて、理科教育はT先生と私です。
内容で教員を選ぶとしたら、T先生と私で第一志望と第二志望を書く学生さんが多いはずですが、そのような学生さんは殆どいません。その代わり多いのは、地学のW先生と私を第一志望と第二志望に書く学生さんが多いのです。
でも、私には分かるような気がします。学生に対する対応が良しにつけ悪しきにつけ、実に似ているのです。大学の授業なんてそれほど大事とは思っておらず、大学教育の本体はゼミの個人指導だと思っています。学生に対するからかい方とプレッシャーの与え方とかわいがり方が似ているのです。
卒業研究の場合は、比較的長期間の繋がり、かつ、先輩からの情報の割合が強い。一方、大学院の指導教員の場合は限られた情報の中で選ばなければならない。一人一人は、最大限のアンテナを広げて選んでいます。大変だな~っと思います。
悩んだ人にアドバイスします。直感は論理の過程が見えない、総合的で高度な論理分析だと。