■ [う~ん]涙もろい
自分でも情けないほど、涙もろいと思います。でも、悲惨な状態の子どものことを思い浮かべると、どうしても涙が出る。抽象論ではなく、具体的に子どもたちの顔が浮かびます。そして、それを見捨てていた自分がいます。今も救えずにいずにいる自分がいます。ウオームハートとクールブレイン。笑われても、両方とも持っていたい。
■ [大事なこと]うまくいかなかったとき
「教師の手だて(多くの場合は旧来のテクニック)を加える」か「不必要な教師の手だてをそぎ落とし、率直に子どもたちに求める」か。
「色々な人と相談するか否か」。
「一人も見捨てないに拘る」か「多少はしょうがないと思う」か。
「多様な人のために自分の出来ることをやり続けることは、自分にとって得であると思えるか否か」。
昨日のゼミでゼミ生に語ったこと。子どもに求めていることを、自分にも求める、この当たり前のことを出来るか否かが大事だと。『学び合い』を他人の指導のための方便として捉えているか、ホモサピエンスの最強の戦略と捉え、それを自分にも人にも適用しているか。
教師であれば指導のための方便として最初は取り入れるのは当然。でも、自分に適用していないものを人に求めても限界がある。見透かされるから。もちろん、私がそれをいつも適用しているかと問われれば、そんなことはありません。でも、適用すべきだと思っているし、適用できていないところを指摘されれば正さねばならないと考えています。せめて。
■ [う~ん]議論
本当は、先生方との議論の時、「それで一人も見捨てないですか?」と問いたい。そして、それを基礎として議論を深めたい。でも、それを言えば「あなたは見捨てている」と言うことと同じ。これは、よほど人間関係が出来ていて、定常的に直に会える人以外には言えない。言えば、誤解が生じるから。
だから多くは方法のレベルの議論となる。私としては、それを通して「考え方」に繋げたい。そして「一人も見捨てない教育は可能である」ということを伝えたい。でも、なかなか難儀だ。なかなか方法のレベルの話に留まってしまう。しょうがない。私の話しているのは「方法」なのだから。
でも、方法を議論すると、私が方法を強いているように捉えられてしまう。そして、自分の方法に従わないと「破門する」ような人と誤解されそうで怖い。でも、本当は、方法はどうでもいい。私が拘るのは「一人も見捨てない」こと。従って、「一人も見捨てない」により有効な方法であれば、直ちに受け入れます。
しかし、「多少は見捨てても良い」という方は、そのようなことを考えるに至った履歴と現状を哀れと思います。最終的には集団の中でなんとかしたいと願います。しかし、とりあえずは語り合える相手ではないと思います。
■ [大事なこと]指導要領
私は指導要領や教科書や教科書準拠の業者テストを大事にします。私が指導要領を大事にするのは、民主的な手続きで定められた「国民全員が達成すべき最低限の基準」だから。つまり、「一人も見捨ててはいけない基準」だから。そして、教科書や教科書準拠の業者テストはそれを具現化したものだから。
例えば、学習規律と多くの方は言います。では、教育基本法、学校教育法、指導要領のどこにそれが書かれているのでしょうか?それを吟味すべきだと思います。そうでないと、単に教師の都合で非民主的な行為を合理化してしまう。
教科の本質と多くの方は言います。では、教育基本法、学校教育法、指導要領のどこにそれが書かれているのでしょうか?それを吟味すべきだと思います。そうでなければ、単なる一人の教師の思いこみになります。それが妥当であるか、否かを吟味するとき、「それは一人も見捨てずに達成できるか、否か」だと思います。
『学び合い』は教師の仕事を放棄していると多くの方は言います。では、教育基本法、学校教育法、指導要領のどこにそれが書かれているのでしょうか?それを吟味すべきだと思います。そうでないと、目的と手段を取り間違えてしまう。
他人様の子どもを預かる公教育を、思いこみでやるべきではない。その基礎となるのは法です。その言葉を確認すべきです。そして、その言葉を基礎として各人が解釈し、議論すべきだと思います。