■ [大事なこと] その子を変えようとするアプローチ

昨日のメモで「その子を変えようとするアプローチ」というものが何かというご質問をツイッターで受けました。まさに、そうでないという点が『学び合い』を特徴なのですから。補足したいと思います。
教師が気になる子はいます。それは特別支援の必要な子に限りません。暴言・暴力を乱発する子。阻害されている子。場面緘黙の子。家庭的な問題を抱える子。・・・・・。そうなると、その子を変えようとし始めます。
ところが、歴代の教師が変えようとしていたが変えられない子どもです。そんな簡単に変えられるわけありません。ましてや家庭的な問題は教師が手を触れられないところです(教師ドラマでは簡単に解決できますが)。そして、気になる子が3、4人いるとなるとパニックになってしまいます。
善意の教師は全ての時間をかけてそれに対応しようとします。しかし、そうすれば本当に守るべき自分の家族を犠牲にしてしまいます。そして、気になる子を変えようとすると、その子以外の子どもの対応が出来なくなります。
キリスト教の聖書に、百匹の羊を持つ羊飼いの例があります。神は一匹の羊が見つからなくなると九十九匹の羊を野原に残して探すそうです。しかし、これは神だから出来ることです。我々がそうすれば、野原に残した九十九匹がオオカミに食べられてしまいます。
「その子」を変えようとするアプローチは、保護者や「その子」専任となれる人(例えば介助員)が出来ることであり、教師はやってはいけないことだとおもいます。だから、『学び合い』では「その子」を忘れます。かなり辛いですが、忘れるように努力します。なぜなら、それに拘っても出口はないからです。
一人に拘るのではなく、一人も見捨てない集団づくりに拘るのが『学び合い』です。特別支援の必要な子だけではなく、全ての子どもは「特別な支援」を必要としています。
その支援とは、神のごとき能力で初めて出来ることだとは思いません。ただ、膨大な会話は必要だと思います。それによってどのようなことが必要なのかが分かります。そして、相手を共感することは出来ます。それは一人の教師では不可能ですが、子ども集団ではできます。
そして、仮にその問題は解決できないかもしれません。特に、家庭的な問題は解決できないでしょう。でも、その子を理解する集団をその子が持てば、みんなが持てば、その子は社会の中で生きていけます。幸せに生きていけます。
『学び合い』は一人も見捨てないことに拘ります。だから、集団づくりに拘るのです。これは、ごく普通の教師でも出来る凄いことです。