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2011-08-02

[]自ら 08:42 自ら - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 自ら - 西川純のメモ 自ら - 西川純のメモ のブックマークコメント

 同志のブログに触発されて。(http://bit.ly/qhVB0H

 私が理科コースに所属していたときに聞いた話です。学生がデータをとったので、先生が「二つの条件の違いを明らかにする方法を考えなさい」と指示しました。翌日になってその学生に聞いてみたら、「一生懸命、考えたのですが分かりません」と答えたそうです。その学生は、人にも相談せず、本も読まず、とにかく一人で考えてたそうです。その先生はあきれました。当たり前です。一人の学生が考えて、統計学を生み出し、検定法を案出するわけあり得ません。

 自然科学は、その最たるものですが、研究というものはすべからくそういうものです。学生には「研究には3つのものが必要だ。それは、資料を読み、人と議論し、自ら考える。その一つでも欠けたらば研究にはならない」と言います。何かをなそうとする場合、まずは先人の知恵を借り、人と議論して、自分の考えを生み出すのです。0からは生み出せません。

 「自分で考え、自分で決断し、自ら行動し、自ら責任をとる」という言葉があります。これは正しい。しかし、この言葉を誤解して子どもに強いる場合があります。家庭生活は例外的ですが、一般社会で求められるのは「みんなで考え、みんなで決断し、みんなで行動し、自らの責任をとる」能力です。

 「自分で考え、自分で決断し、自ら行動し、自ら責任をとる」が暴走してしまえば、私が理科コースで聞いたような学生を生み出します。

[]発表能力 08:42 発表能力 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 発表能力 - 西川純のメモ 発表能力 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 同志のブログに触発されて。(http://bit.ly/nFvMIq

 『学び合い』では発表能力を育てられないと言われます。そもそも発表能力に何が必要なのでしょうか?多くの教師は、話形などを教えようとします。しかし、そうではありません。

 発表能力に必要なのは、第一に、発表する相手への基本的な信頼です。極端な例は場面緘黙の子どもです。その子は家では喋っています。つまり、喋る能力はあるのです。ところが学校では話せなくなります。それは、保護者は話を受け入れてくれるだろうという信頼があり、クラスメートにはそれがないのです。

 教師だってそうです。赴任当初の学校で、職員会議で手を挙げて発言することが出来る教師はどれだけいるでしょうか?子どもにとってクラスのみんなの前で話すことはそれぐらい抵抗があることです。

 発表能力に必要なものの第二は、その必然性です。大人になって多くの人の前で発表する場合、そうする必然性があります。例えば、不祝儀の親族挨拶は、忙しい中、葬式に来ていただいた方々への感謝と、家族の身の振り方の報告する必然性があります。職員会議で立って発言する場合も、何らかの目的があります。

 ところが、朝の会で子どもが全員のまで発表するとき、本人に発表する必然性があるのでしょうか?出席番号順に順番が回ってくるから発表するのではないでしょうか?発表したいものがあるのではなく、発表しなければならないから発表するのではないでしょうか?

 相手に対する信頼感を持ち、発表するに値する必然性があってから、そこで話し方が出てきます。しかし、いきなりクラスの前で発表させても無理です。自らが発表する前に、膨大な情報の吸収が必要です。

 ただし、その情報は分割せずに、そのもの自体の情報が必要です。具体的には、我々は喋る前に、膨大に話を聞きます。また、我々がものを書く前に、膨大に読まねばなりません。それらは英語の教科書のように分割され、単純化されたものではなく、本人が興味を思うようなものでなければならないのです。言うまでもなく、興味を持つものは一人一人で違うのです。ケネディやキング牧師の歴史的な演説を、いきなり凄いと思うような子どもは多くはいません。

 以上のように整理すれば、『学び合い』こそが全体の前で発表する能力の育成に必要なのが分かると思います。

 日々の教科学習の中で、自分の「素」(例えば分からないと素直に言える)を出しても、それを受容してもらえるという経験を積み上げればクラスメートに対する信頼も生まれます。

 日々の教科学習の中で、自分が分からないことを喋り、人が分からないところを説明することに必然性があることは自明です。

 そして、色々な人のしゃべり方を自分で選択することが出来ます。

 では、日々の『学び合い』を、一般の人が考える「全体の前で発表する能力」にするにはどうしたらいいでしょうか?ポイントは「必然性」だと思います。

 よくありがちな「最近の私のこと」では、全体に話す必然性はありません。それは、そのことに興味を持ちそうな人に喋ればいいことです。むしろ、空気を読んで、自分だけが興味を持つようなことを大勢の前で喋らない能力の方が大事です。

 『学び合い』における話をするグループサイズを研究したことがあります。それによれば、算数などで起こる「聞く、教える」という場合は、二人が基本サイズで、それが流動化します。ところが、何かを協働でやる場合、例えば実験をする、本の読み合わせをする、壁新聞を作るなどの場合は、四五人が基本サイズです。これは教師が「一人でやっても良いし、グループでやっても良いよ」と人数を自由にした状態で、子どもが選択するサイズなのです。ところが、クラス全体の目的の確認の場合は、何も言わなくてもクラス全体で話し合います。

 職員会議で説明します。例えば、職員会議でスターター担当のある先生が、昨年度にスターター担当だったある先生に、ピストルの保管場所はどこかを全体の前で聞いたとしたら、どう思うでしょうか?おそらく、「時間の無駄だな~。そんなこと会議が終わってから個人的に聞けばいいじゃないか?」と思うのではないでしょうか?

 また、職員会議で運動会の行進曲の選曲を議題にされたらどう思うでしょうか?「時間の無駄だな~。そんなことは係で決めて、報告事項にすればいいじゃないか?」と思うのではないでしょうか?

 しかし、「運動会に関して保護者にどのような注意を連絡するか」、「運動会で何を達成するか」のように全体で合意する必要があることを、ごく一部の先生が決めて報告したらどうでしょうか?たとえ大多数の人が合意することが確実であったとしても、「みなさん、よろしいですね」という合意を、全員の前で合意する儀式は必要ですよね。

 子どもたちも全く同じでした。

 要は、「最近の私のこと」という題ではなく、「このクラス全員が100点を取れるようにするにはどうしたらいいか?」とか、「修学旅行の自由行動で最低限守ることは何にするか」とか、「給食の先生に迷惑をかけないように、早くきれいに食べるにはどうしたらいいか」という題を掲げるのです。

 ただし、『学び合い』を通して、基本的な信頼感を成立した後の話です。そこで、様々な人の発表を聞きながら、自分なりの発表の仕方を作り出すのです。