■ [お誘い]中国の会
9月4日に山口で『学び合い』中国の会が開かれます。私も話します。http://bit.ly/pZkHd0
■ [大事なこと]補足
先のメモで「一部の子どもを見捨ててもしょうがない」と思うタイプの人として自身の協働性が弱まり病んでいる人のことを書きました。他に私の知る限り2タイプいます。
いずれも他人の気持ちを想像する能力が低い人です。以下のリンクで紹介するメモの前者は、見捨てられる子の存在は理解しているが、それがどれほど苦しんでいるかが分からない人です。後者は、見捨てられている子がいること自体が理解できない人です。
■ [大事なこと]譲れぬ一線
東京の『学び合い』フォーラムでは、話の内容と言うよりも参観者の空気を感じたくて、色々な発表を遠くから見ていました。そうすると分科会の中には「これを言うと西川先生からは違うと言われると思うが」とか、ひどいのになると「叱られる」と言う人がいました。あははは。ま、笑いながら言っているのですが、ネタの一つだと思います。しかし、その人はそうでないことは分かっていますが、聞いた人の中には本気にする人もいるかもしれません。ましてや、全国の人の中にはそう思っている人は少なくないと思います。そこでメモります。
まず、私はガンガンの従来型指導は大好きです。子どもたち(私の場合は学生さんや現職さん)に一言も言わせず、ジェットコースターのようなマシンガントークで1時間半の講義中語りまくるのは快感です。講演も同じですが、語る前には不安で不安でしょうがないのですが、一度語り始めればフルスロット。ま、教師になろうと思うような人は、これが好きな人が多いでしょうね。
テクニックの有効性は分かっています。それを旨く使えるならば使えばいい。話術もカリスマ性もそうです。でも、それを必須事項としたら、それに合わない教師を見捨ててしまいます。それらが必須事項ではないと言っているのです。そして、本末転倒する危険性があることを意識出来るならば、先に述べたように使った方が良い。
教科の内容なんてくそ食らえと書きます。でも、レトリックです。そうでも書かなければ学校観が伝われないから。自分な好きなもの、それを伝えたいと思うことは当然です。そして、例え教えたものが子どもに分からなくても、その内容に対する気持ちは子どもに伝わります。
子ども集団は有能だと書きます。でも、そうでもない状態の集団がある場合を否定しません。でも、有能だと考えなければ問題の解決策が見えないからこそ、有能だと考えるべきだというレトリックです。
では、譲れない一線は何か?それは「一部の子どもを見捨ててもしょうがない」とある人が言ったら、「あなたは私の同志ではない」と思います。実際には「一部の子どもを見捨てていても」そうは思いません。私だってそうです。でも、それに対しての心のやましさを失えば同志ではない。でも、その人を人格否定はしません。その人は病んでいるのですから。つまり周りから見捨てられているのですから。
考え方とテクニック、これは相対的なもので、入れ子構造のようなものです。「一人も見捨てない」という始原の願いに対しては、学校観・子ども観さえもテクニックと言えます。最善の方法(テクニック)は、多様な方法を柔軟に適用し続けることです。
追伸 第一に、私がどう思うかなんて、どうでも良いことですよね。私を引き合いに出されると、私が怖い人のように思われてしまいます。あははは