■ [大事なこと]説明能力
本日、ゼミ生より説明能力の評価方法について聞かれましたので応えました。大事なことなので、ここにメモります。なお、以下で書くことは、コミュニケーション能力や、はては教師の授業能力にも同じことが言えます。
最近は教育においてもコミュニケーションが大流行です。その結果、各学校で説明能力の育成を目指した試みがなされています。その方向性は正しいのですが、何を説明能力と捉えるかは多種多様です。
一般に説明能力を評価する場合、一定の話形が話せているかいないかを評価します。例えば、「私は○○だと思います。理由は○○だからです」のような話形です。しかし、それが本当に説明力に関わっているという根拠はありません。また、声の大きさで評価します。でも、本当にそれが説明力に関わっているという根拠はありません。
研究者として断言します。説明力に関して、どのような構造になっているかを学術的に明らかにした研究はありません。少なくとも、あるジャンルの研究者の多くが同意するような構造はありません。ま、あるわけありません。なぜなら説明とはそんな単純なものではないからです。
例えば、ある研究者が実験的な条件でAと非Aの二群に分けて、Aが説明力に関係すると明らかにしたとします。別な研究者が同様な方法で、Bが説明力に関係すると明らかにしたとします。ところがAとBがともに成り立つと、A単独、B単独より関係するという子は自明ではありません。交互作用というものですが、A単独、B単独で関係するとても、AとBが重なると関係しないと言うことは良くあることなのです。
考えてみて下さい。実際の説明の場合、たいていの場合は互いに知っている相手です。互いに見知らぬ相手に説明しなければならないという状況は実生活ではあまり無いはずです。となれば説明する相手のことを理解した上で説明します。例えば、相手はあることの理由に関して自明であればそれを省略するのは当然です。それを「私は○○だと思います。理由は○○だからです」という話形に囚われて、自明のことを繰り返さねばならないとしたらとても変な説明です。言うまでもなく数学者や自然科学者の学問上の説明でも同じです。解析学の論文が集合論やイプシロンデルタ論法まで遡って説明しなければならないとしたら、とてつもなく長々した説明になります。
では、どうするべきなのか?それは過程ではなく結果を基準とすべきなのです。説明というものには達成すべき目的があります。例えば、「ある問題が解けるようになる」、「ある意見に同意するようになる」等のように、「ある行動変容が持続的になる」という目的があります。従って、説明の評価は、説明される側に、その行動変容が持続的に成り立っているか否かで評価すべきなのです。当たり前でしょ?
さて、ここから先は『学び合い』を実践している方でないと分かりづらいかもしれません。
説明には、「ある行動変容が持続的になる」の他にもう一つの意味があります。それは、相手に好意を持ってもらうという意味です。実生活を思い起こせば自明だと思います。相手に説明できたとしても、嫌われたら元も子もありません。従って、相手が説明した側の説明、または説明した人自体の好悪も評価すべきです。
説明能力の評価の多くの場合、説明する側の評価のみがなされます。が、実は説明される側の能力も大事です。例えば、自分の分からない理由、納得できない理由を説明者に説明することが大事なのです。そして、説明者と同様に嫌われたらば元も子もありません。
また、実生活を考えれば、ジャンルごとに適切な説明される相手、適切な説明する相手を選べる能力も必要です。そして、そもそも選択できるだけの多様な相手を持てるか否かが重要なのです。
そして、『学び合い』を実践している方でないとかなり理解困難だと思いますが、実際の説明において、説明する人と、説明される人は固定していません。残念ながら多くの教育関係者は、成績の高い人が成績の低い人に教えるという固定的な関係を想定しています。が、実際は違います。
ということで、残念ながら教育の世界で多く行われている説明能力の評価は的外れのようにしか思えません。
が、もっとも重大な問題点は、それを評価している職員集団の中で「説明能力」とは何かという合意が曖昧だと言うことです。これではどうしようもありません。職員一人一人が曖昧な「説明能力」をもち、それが状況によってぶれます。そして、職員間でぶれ方が違うのです。これでは別々な言葉で会話しているのですから、そこから生み出されるものは実りが少ないのは当然です。
ではどうするか?先に長々書いた、私から見ると的外れな説明能力の評価法であっても良いですから、職員同士で合意形成を計るべきです。合意形成のための話し合いをすれば、自分たちが育成しようとしている説明能力とは、そんな単純なものではないことが明らかになると思います。
■ [大事なこと]正しい連携
学校には色々な連携があります。小中連携や学校評議員などです。でも、うまく機能しているとは思えません。たいていの場合は、かっちりした組織を作ります。そして、会議の場を設けます。でも、それじゃあうまくいかなくなるのは当然です。
我々は、子どもたちが自由に集団をつれる状態で、どのような話題の時、どのような集団をつくるかを調査したことがあります。その結果、何かを聞く、というレベルは基本は二人です。そして、何かをつくるというレベルは基本は4、5人です。しかし、その集団の基本的方針を定める場合は、子どもは全員で話し合います。
以上は教師がゴチャゴチャ言わなくてもです。
なぜ既存の連携がうまくいかないか、それは全ての話題を全員で議論するように限定されているからです。ちょっと聞くレベルは二人で話す方が良いのです。何かを作りだそうというレベルは4、5人が良いのです。
例えば、中学校の先生が気になるこのことを聞きたければ、前担任の小学校の先生に個人的に聞いた方が良い。自分の子どものことを相談したいならば、担任に聞いた方が良い。 もし、小中で何かの企画を計画するならば、小中の先生方の4、5人が案を練ればいい。保護者を巻き込んだ企画でも同様です。
では、我々の考える正しい連携はどんなもんでしょうか?
小中連携は小中合同の『学び合い』を一定頻度以上でやるのです。おそらく体育館が場所です。そこに小中の子どもたちがゴチャゴチャと学び合います。その中を小中の先生方がゆったりと回ります。そして、そこで互いの教え子をネタに小中の先生方が立ち話をするのです。
その場に保護者が混じるのです。保護者同士が、そして、保護者と教師が子どもをネタに立ち話をするのです。そして、職員室の脇に机があって、保護者と空き時間の教師がお茶を飲みながら話すのです。
以上の積み上げがあって、基本方針を定める全体会が生きてきます。全ての集団が有機的に動くためには、仕事をゴチャゴチャとした中で達成することが必要なのです。
私立の戦略
我がゼミは学校を核にした地域コミュニティの創造をテーマとしていることを、ある私立学校の先生に話しました。その先生は、「うちは私学だから関係ありませんね」と言ったので、思いっきりバカにして、さんざんからかいました(その先生は元ゼミ生ですので)。
私学こそすべきです。だって考えて下さい。その地域コミュニティの子女は、より好条件の学校に行けるのに歩いて通えるからと言う理由でその学校を選んでくれるかも知れない子どもなのです。学校にしてみれば「美味しい」子どもです。
また、ある保護者がその学校を候補として考えたとしたとします。もし、親戚知人がその学校の近くに住んでいたら、「どんな学校?」と聞くはずです。それに対する答えは、その学校を選択するか否かの決定要因になるはずです。
第一、地域と連携できたら、地域も学校も得です。
なぜ、そういうことを真剣にやる私立学校は少ないですよね。でも、我が息子のかよう附属学校もあまりしません。地元の学校の催し物の案内は地域の回覧板で流されますが、附属は流しません。
■ [大事なこと]継続性
「岡惚れも三年すれば色のうち」という言葉が好きです。私は色々な方とつきあいます。つきあい方も様々です。一時期、濃密だったのが、ぱたり、という方が大部分です。それが普通であり、私もそういうつきあいが少なくない。でも、細くとも、長くつきあいがある方もあります。私はそういう方を大事にします。
商売をやっていた父親から子どもの頃教えてもらったことが今も忘れられません。どういう文脈で教えてもらったか定かではないのですが、「銀行は預金残高の多い少ないでお金を貸すか貸さないかを決めるのではなく、口座を開いてからのおつきあいの長い人に貸すのだ」と聞きました。お金に貸すのではなく、人に貸すのですから、ある意味当然ですね。
追伸 上記をツイッターで流したら、そういう銀行は80年代にほぼ絶滅したそうです。そして、人ではなくお金にお金を貸すということをしたためバブルが起こったそうです。事実だとしたら残念なことですね。