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2011-09-25

[]楽になる 09:33 楽になる - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 楽になる - 西川純のメモ 楽になる - 西川純のメモ のブックマークコメント

 「『学び合い』をやると教師は楽になるか?」という質問を最近ゼミ生に聞かれたので、それをメモります。答えは「楽になり、大変になる」というものです。

 同じ仕事でも人によって大変と思ったり、楽ちんに思ったりします。何故でしょう。第一に、その人の能力が関係します。そのことに長けた人は楽ちんと思えるのに、そうでない人には大変と思います。また、長けた人であっても時間がない時、疲れている時があります。そんなときに仕事が来るとものすごく負担です。日本の教師はとてもまじめです。しかし、共稼ぎで子どもが病気の時はとても大変になります。

 『学び合い』ならば今まで教師が時間をかけていたことをしなくてすみます。例えばこりにこった教材研究は不要になります。プリントを用意したり、教具を自作したりする必要はありません。教科書で十分です。

 今まで気に病んでいた「あの子」のことも、自分一人で背負うのではなく、クラスみんなで背負ってくれます。そして、自分の話を聞いて納得してくれている数人が中心になっている集団を信じられるのです。気が楽になります。

 子どもが病気になっても年休を取れない状態から、気軽に同僚にお願いできます。同僚も気軽にOKしてくれます。だって、自習監督なんて行かなくても自律的にクラスは運営されていますから。いや、そのクラスと合同で授業すれば、自分のクラスももっと光るから。協働性のある職場は居心地はよいものです。

 つまり楽なのです。特に「気が楽」なのです。が、大変です。

 『学び合い』をやり始めた人から3ヶ月ぐらいたって「急にクラスの達成度が悪くなった」と相談受けることがあります。十中八九は「手を抜いて」いるからです。実際、上記の通り従来型の授業に比べて圧倒的に楽です。そして、クラスは驚異的に向上します。なので、だんだん手を抜き始めるのです。しかし、『学び合い』は従来型授業で大変だった部分は不要ですが、何もしなくても良いわけではありません。特に重要なのは「見る」という行為を省略すれば決定的です。

 考えてみて下さい、『学び合い』では子どもたちは馬車馬のように活動しつつけています。楽ではありません。特に、その中心となっている子どもは本当に大変です。分からない同級生のために予習はしなければなりません。気のあわない子と折り合いを付けなければなりません。

 さて、子どもは教師の腹を見透かします。特に『学び合い』で中心となっている子どもは特にその能力が高いのです。では、楽をしている教師を見たらどうなるでしょう。当然、自分も楽をし始めます。そうなればクラスの状態が急激に悪化するのは当然です。

 だから『学び合い』において、子どもが成長すれば、それ以上に教師は成長しなければならないのです。子どもが頑張れば、それ以上に頑張らなければなりません。子どもたちに従来型指導と『学び合い』を比較してどちらが良いかを問えば、圧倒的に『学び合い』です。しかし同時に、「たまには前の方が良い」とも言います。理由を問えば「楽」だからです。従来型指導の場合は、何も考えなくても授業が終わります。手の抜き放題です。が、『学び合い』では馬車馬のようにならなければならないし、周りの子どもが手を抜くことを許さないのです。教師も同じです。実は、子どもたちが教師の手を抜くことを許さないのです。

 『学び合い』では高い理想を語ります。それと関連して日々の課題を意味づけます。もし、教師がその語る理想に対応しない行動をしたら・・・・。つまり、人に語ることに矛盾しない行動をしなければならないということです。こりゃ大変です。でも、教師という職業に誇りを持つことが出来ます。

 つまり、「楽になり、大変になる」になるのです。

追伸 まわりの常識人に説明する、政治をする、したたかになる、という大変さもありました。

[]方法 08:48 方法 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 方法 - 西川純のメモ 方法 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 それが『学び合い』か否かを判断するポイントの一つに、子どもたちが現在やっている方法を子どもたちがやめる権利を担保しているか否かです。

 究極の『学び合い』の姿とは、例えば小学校は、「新入生が入学式に、校長先生が6年後に大人になって中学校に行って下さい。どぅぞ」です。あとは、子どもたちが全部やるのです。しかし、指導要領の縛りがある、また、教科書を使わねばなりません、だから、「教科書○ページから○ページまで全員が理解して下さい。どうぞ」という課題になります。なお、先の究極の姿ですら、小学校が6年という法の規定が無くなればもっと簡略化されます。

 が、子どもの能力を信じられなければ方法を強いてしまう。もちろん、教師は大人なので色々な方法の知識がある。それを活用することはOKだと思います。例えば、「これこれは良いよ」と例示することはOKです。問題は、それをやめる権利を担保しているか否かです。それを認めないならば、そこには子どもの能力を信じられないものがある。

 もちろん、能力を信じる、信じないのレベルではなく、方法を強いる場合があります。それは、子どもたちの生命・身体に危害が及ぶところです。それは方法を強いることは当然です。逆に言えば、それ以外は方法を強いることは避けるべきです。そして、それ以外を強いた場合、それは誇るべきなのではなく、集団づくりが未成熟であることを恥じるべきだと思います。