■ [う~ん]自己嫌悪

意味不明なメモです。
科学の真理を明らかにする自然科学者の場合、その明らかにした真理と明らかにした人の人格とは別に考えてもらえる。しかし社会科学者の場合、明らかにした真理と明らかにした人の人格は不分離です。社会科学の場合、明らかにされたものが正しいか、否かは、自然ではなく「人」集団が判断するから。
『学び合い』は私にとっては自然科学、数多くのデータに裏打ちされた生物学の延長上にあります。が、多くの人の場合は社会科学と捉えられている。となれば、『学び合い』を語る私は『学び合い』と同様にシンプルで、揺るぎなくならねばならない。ま、それは可能だと思います。『学び合い』は非常にシンプルだから。しかし、それに矛盾していないと思われなければならない。アスペ傾向の「頭の良い中学生」レベルの社会的能力の私は、それは不可能のように思います。
私が高校教師だったときの原罪が、『学び合い』を知れば何が原因かが分かります。過去の罪はあがなえない。でも、それが再現されない社会が出来そうに思えます。それの障害に自分はなりたくない。
もっと人格的に大人で、学識も高く、高潔な人が背負ってくれたら、もっと早く、もっと広く『学び合い』が広がったのではないか、と思います。例えば、佐藤学先生だったら、と。足下さえ危うい私です。足下だからこそ。