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2011-12-03

[]分からない人へ 19:24 分からない人へ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 分からない人へ - 西川純のメモ 分からない人へ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 分からない人へ説得しようとするのは無駄だと思います。第一の理由は、その説明を聞きはしないからです。文献も読みはしません。だから我々から見ればコメディーみたいな誤解をするのです。第二の理由は、読んだとしても誤解するからです。

 認知心理学の古典的な研究の一つにバートレッドの「幽霊の戦い」の研究があります。彼は北米インディアンの民話の一つである「幽霊の戦い」をイギリスの学生に読ませて、それを再生させたのです。その結果、全く誤って記憶します。というのは、その民話を理解するには北米インディアンでは当然としていることが、イギリスの学生は理解不明なのです。結果として、北米インディアンの当然としていることを、イギリスの学生の常識に合わせてしまうのです。その結果、その物語には何も書かれていないことを書いたと思いこみます。逆に、何度も何度も書いていることをすっぽり省略してしまうのです。

 教師は教科内容を教えることだと思いこんでいる人の場合、「クラスづくりの初期段階は教科の内容を凝らなくてもいいが、その一方、一人も見捨てないということを徹底すべきだ」という言葉は「教科の内容を凝らなくてもいい」となり、「教科はどうでもいい」となり、「教師は何もせず、放りっぱなし」と誤解し始めます。そして、「発展段階では教科の力が必要だ」という言葉は無視されます。おそらく我々が何を書こうか、読まない・誤解する、というのは変わりません。それは、個々人の人間性の問題ではなく、人間の本性だからです。

 分からない人とのつきあい方で重要なのは、その他大勢の方から見てどう思われるかと言うことです。

 例えばです。『学び合い』を反対する人(Aさん)がいたとします。私がその人を「バカだ」とか「屑」だとかという表現で貶めたとしたとします。私を個人的に知っていて、私を好意的に理解している人だったら、私の表現を好意的に解釈してくれるでしょう。また、Aさんを「バカだ」とか「屑」だと思っている人だったら、「よく言ってくれた」と溜飲を下げてくれるでしょう。しかし、上記のような人は私がそう言おうといまいと変わりありません。

 逆に、Aさんの立場に立っている人たちにとっては、怒りに火を付けることになると思います。さらに怒りを通り越して「軽蔑」することになるでしょう。これは望ましくありません。が基本的には私が「バカだ」とか「屑」と表現を使わなくても同じでしょう。

 上記の人たちは、「バカだ」とか「屑」という表現を使うか使わないかはあまり影響を受けません。ところが、世の中の大多数の人は私もAさんもどうでもいいのです。当然、両者の主張の内容を吟味はしないでしょう。が、その人達も私やAさんの表現の仕方は吟味する可能性が高いです。

 どうしたらいいか?聞き流せばいいのです。分かる準備が出来た人が理解することによって広がります。そして事実が証明します。この点には安心しています。というのは、今の授業は絶対に全員を教えることは出来ません。そして、今の日本は、分からない子どもの保護者は「何故、教えられないのか!」と要求する時代です。モンスターペアレンツと言われますが、当然の主張をしている保護者が大部分です。少子化が進めばこの傾向は強まることはあれ、弱まることはありません。一人も見捨てず、これを真正面から徹底的に追求したのが『学び合い』です。私は時代の必然だと思っています。とうことで安心しているのです。気を楽にしてね。

[]校長が替わると 07:32 校長が替わると - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 校長が替わると - 西川純のメモ 校長が替わると - 西川純のメモ のブックマークコメント

 『学び合い』は現状の授業の姿とかなり異質です。リスク管理を責任としている校長なれば、それを学校の柱とするのには覚悟が入ります。それなりの成果を上げている『学び合い』の実践者が、個人的に実践を続けることを容認するとは別な次元の理解が必要です。

 大変であったとしても、『学び合い』の手引き書等を読んで、授業方法ではなく、その背景となる理論的根拠や願いを理解する必要があります。それによって際物ではなく、ごくごくまっとうなことを徹底的に突き進んだものであるということを理解しなければなりません。もちろん、どれほど突き進むかというのは、各学校の事情を勘案し校長が判断することです。しかし、程度の差はあれ、『学び合い』は一人も見捨てないというまっとうな願いから出発していることを理解しなければならない。教育基本法第1条の「人格の完成」という言葉の意味をお題目としてではなく、真剣に何かを考え、それを踏まえて毎日の授業を組み立てられるということを理解しなければなりません。社会から付託された責務に比べて一人の教師の出来る限界を理解し、それでもそれに応えるためには子どもたちの力を信じるしかないことを理解しなければなりません。そうだから学校を『学び合い』で創ろうというルビコン川を越えることが出来るのです。

 が、現状でそれが出来る管理職はそれほど多くはありません。「みんながやっているから、まあいいんだろう」というホモサピエンスの基本的判断方法に従っている人が大部分です。となれば問題は校長が替わった後が問題です。

 『学び合い』学校で見える成果、例えば「最低点が相対的に高い」、「男女仲がよい」、「特別支援の子の大変さが少ない」等を認められる校長だった場合はどうなるか?『学び合い』の手引き書等を読まずにいたならば、当然、授業方法の1種だと思うでしょう。そうなれば、世にある多種多様の授業方法を併用することを勧めるでしょう。しかし、考え方のレベルで矛盾することをやれば、『学び合い』はどんどん駄目になります。テクニックの罠というものに陥ります。そして、その責任を『学び合い』に帰結すると言うことをします。

 『学び合い』の姿、例えば「子ども立ち歩く姿」、「教師の役割が見えにくい」に目を奪われ、「最低点が相対的に高い」、「男女仲がよい」、「特別支援の子の大変さが少ない」等の成果を認められない人がいます。中には、『学び合い』をとにかく嫌うという人もいるでしょう。そうなれば、全否定をします。

 二つのタイプの校長を非難するつもりはありません。残念だとは思いますが。そのように判断するのは現状で当然です。日本の教育の不易なところを守っている方々は、そのような方々なのですから。

 さて、そのような校長に代わった後に、残った職員が『学び合い』を実践するためには何が必要なのか?それは『学び合い』の考え方だと思うのです。幸い、上記の二つのタイプの校長先生の場合、『学び合い』を考え方とは理解せず、授業方法として理解しています。そのため、見た目を変えた従来指導型『学び合い』をやれば、『学び合い』をやっていないと思うはずです。一人も見捨てないという願いを持ちつつ、それを子どもに語り続けるならば、どんな形態であったとして『学び合い』です。

 昨日は同志の校長の学校で講演しました。そこで何を語るべきか悩みました。そして、『学び合い』の願いを語りました。何人かの先生の心の中に伝わったと思います。この語りだけが、校長が替わった後の職員の方々への贈り物だと思っています。

追伸 大多数の校長は、『学び合い』に対して全否定も全肯定もしないと思います。ようは結果を出して、職場の合意事項に反しないならば各職員が、それぞれの授業をすることを止めはしません。ですので、ようは職場の人間関係を築き、結果を出せば、職員集団が変わります。職員集団が合意し、結果を出しているならば、大抵の校長は反対しません。ただし、その場合、職員の中には『学び合い』は考え方であることを理解し、テクニックの罠に陥らないように、したたかに政治をする人が数人は必要です。