■ [大事なこと]戦略
私が今考え、やろうとしていることを書きます。
私はロジャーズやムーアの理論によって『学び合い』の広がりを理解してきました。今年の初めより何度か書いているように、『学び合い』はイノベーターの時代からアーリーアダプターの時代に移行しています。そして、アーリーマジョリティに広げるためには戦略を変える必要性があると思っています。今までのイノベーターやアーリーアダプター向けの戦略ではアーリーマジョリティには広げられません。
今までは、安易なノウハウに流れることを極端に恐れていました。だから、手引き書を書くことさえ躊躇しました。しかし、全国には『学び合い』の考えが分かった方が生まれています。そして、『学び合い』となんちゃって『学び合い』は素人でも全然違うということが分かります。どちらがいいかは意見が分かれるでしょう。しかし、全然違うということは分かります。その方々が、それぞれの立場と表現で、『学び合い』となんちゃって『学び合い』の違いを伝えてくれるでしょう。テクニックの罠に陥る人に対して、私と違って共感的な表現でそれは違うよと教えてくれるでしょう。
だから、安心してアーリーマジョリティに広げることが出来ます。以前書いたように、あるものが広がれば、それを道具として使うだけの人が増えます。例えば、民主主義というのは典型的です。日本の中で日本の民主主義の基本的な考え方を理解し、それを表現できる人は多くはありません。大多数の日本人は民主主義自体を意識しません。しかし、日常の生活では民主主義に沿った行動をします。しかし、そのためには、一部の日本人は民主主義は何かを本質的に理解し、その是非を判断することが必要です。ただし、その一部の日本人が選民というわけではありません。役割を担っているだけです。日本人の多くは、周りにその役割を担う人がいなくなれば、無意識でやっていた人が意識し、役割を担い始めますから。
そこで私のやろうとしていることです。
第一は、へき地小規模校が『学び合い』へ移行するための全校教科学習活動(HPにアップしています)を広げることです。これはムーアの理論に乗っ取った戦略です。この全校教科学習活動はいきなり『学び合い』には・・・、と思っている学校でも取り入れやすいものです。かつ、確実に成功します。地元の学校でやってもらいましたが、第1週目でその効果を実感してもらえました。確実に『学び合い』学校に移行しつつあります。さらに、もう一校地元で近々導入予定です。
この効果は小規模校で『学び合い』を経験した先生を生み出すことです。そして、『学び合い』学校がどのような効果を持つかを実感した校長先生が、校長先生の業界でその成果を広げてくれることを期待しています。人が納得するのは理屈ではありません、信頼できる人からの推薦の言葉です。上越では確実にその効果が現れてきています。
西川研究室では、これを出発点として、地域コミュニティと学校を融合した新たな学校の姿を提案し、実現したいと思います。これに関して、千万円規模の予算を獲得し、組織的に動かそうと画策しています。
第二は、課題です。『学び合い』を始めた先生が悩むのは「課題」です。本当は悩む必要性はないのですが、今までの習慣で悩む善意の先生方が多いです。そこで、『学び合い』の課題集を出そうと思っています。現在、『学び合い』を実践している方々にとっては、それを利用しないかも知れません。あくまでもやり始めた人用ですから。でも、もの凄く忙しくてちょっと使うのにも役立つものです。これは、某社と良い悪巧みをしています。
第三は本です。『学び合い』はネット上で広がっています。もの凄くネットでのアンテナの高い人を中心に広がっています。が、書籍によって『学び合い』を知る方々もいます。事実、『学び合い』スタートブックによって知った人が数多くいます。色々な方々が、今後トライすると思います。が、スタートブックもそうですが、現状は『学び合い』の同志の市場はそれほど巨大ではありません。現状の出版社はかなりきつい状態です。具体的に言えば、以前は良い本だったら長い目でペイすればいいと考える出版社はいました。が現状では、半年のうちに2000冊を売り切らなければ出版しないという出版社が大部分です。つまり、現状を変えようという本ではなく、現状を追認している本しか本になりません。
しかし、『学び合い』は現状を追認するものではありません。だから現状を追認するふりをしなければなりません。そこで今考えているのは完全ノウハウ本です。可視化等の『学び合い』のごく初期に開発したテクニックはテクニックにすぎません。しかし、『学び合い』の考えが分かっていない人でも分かりやすいものです。だから、そのテクニックすぎないテクニックを抽出し、まとめたいと思っています。
この本の目的は、『学び合い』は何もしていないと誤解している方々に、ちゃんと色々なところをやっているのだと言うことを知ってもらうものです。もちろん、テクニックにすぎないテクニックを越えたものの方が本体なのですが、それは考え方が分からないと分からないものです。ですので、そこばかりになると宗教書みたいに見えてしまいます。
私は多くの人から宗教書としか思われない本を数多く出しました。しかし、それはイノベーターやアーリーアダプターに向けたものです。彼らはその宗教書と思われる本の中から、考えをくみ出す気があります。しかし、アーリーマジョリティの方々は、苦労してくみ出そうとはしません。我々だって、携帯電話の使い方を会社のマニュアルを読み解いて理解しようとはしませんよね。あれと同じなのです。
以上のことがうまくいけば、パンデミックの次のステージに移行できます。そして、『学び合い』が十分に営利的にも成り立つようになるでしょう。そして、同志の皆さんが少しでも職場で生きやすくなると思います。
以上のことを着々と進行中です。私は私の出来ることをやります。でも、一人では無理ですので、上記の意図をくんで手伝って下さい。みなさんも皆さんの出来ることをやってください。私も手伝えることは手伝います。全員が全員のために、自分が無理なく出来ることを頭を使ってやるしかないのです。でも、それが成り立ったときに、どれほどの力が出せるかは、子どもたちを見て知っていますよね。『学び合い』を取り巻く環境は急速に変化しています。その変化に巻き込まれず、方向を見失わないようにするためには、周りの変化以上の速度で我々が進むしかないと思います。
■ [大事なこと]次
上記のことが成立し、本当のパンデミックが起こったときのことを夢想します。ワクワクする一方、恐ろしくもあります。
教育において学術と実践の世界が乖離しているということは、世界的にもそうですが、日本の場合は顕著です。結局、互いに無視し合っているという状態です。例えば学術の成果は実践に役立つことを標榜していますが、本気でそれを願っているとは現状では思えません。端的な証拠は、学術論文の審査において、実践的な価値があるかを実践者に評価している学会誌は殆どありません。医学の世界だったら、膨大な臨床試験をしています。ところが、学術の世界では実践して評価せずに、教材を開発したという研究は山ほどあります。これは市場調査をせずに、食品開発しているようなものです。研究を実践に生かそうという気がないことを示していると言われてもしょうがないと思います。一方、実践も同じでしょう。
大学の研究者は文部科学省や県の指定の研究会の発表会で、講演をしてもらえばいい、と思っているのではないでしょうか?実践には余り関係のない訳の分からん話をしてもらった方が無難です。下手に具体の実践に関わる話をすれば、「学者バカが何を言っている」と大きな陰口を言われます。
非常に実りのない関係ですが、それなりに安定した関係が成り立っています。しかし、もし学術と実践の世界が融合する動きが、成立したら、学術も実践も劇的な変化が起こるはずです。現状では実践の世界の変化の方が早いように思います。もし、学術が取り残されたらどうなるのか、と思います。学術の世界の研究者の多くは『学び合い』を知りませんし、知っている人も大してこと無いとたかをくくっています。今はロスの悲嘆の五段階説(http://j.mp/ijI668)の無視(もしくは無知)のレベルです。早晩、拒否の段階に進むでしょう。一部の研究者が感情的に拒否しているのは、ある意味アンテナが高いからです。しかし、今の中堅・若い世代の研究者が早く気づいて欲しいと思います。つまり、学校現場に長期に入り質的量的に研究をすることは実りが多いことであること。そして、学習者の多様性を無視する、もしくは減じることを意図した研究ではなく、多様性を前提とした教育のあり方を研究すべきであること。なによりも、教育は何故あるのかを、一般の教師、そして子どもたちに納得させることの出来る言葉を見出すべきであることを。
どんなに素晴らしいことを発見しても教育研究は無意味なのです。数学は数学者という研究者の中でクローズされても意味があります。そういう学問です。しかし社会科学は社会に影響を与えて、その価値が生じます。社会を構成しているのは研究者ではありません。社会を構成している人に分かる言葉を見出さねばなりません。