自分が一人も見捨てないことを実現するために、自分の出来ることをしているならば同志だと私は勝手に思います。一人も見捨てない、それの意味するものは各人各様で結構だと思います。一人も例外を設けず、それを求めるならば。そして、そのレベルを高め続けるならば。ただし、最も守るべき、家族に迷惑をかけない範囲で。
我々は凡人です。でも、同じ方向を向けば、凄いことが出来ます。職人は芸術家とは違います。職人は普通のことを毎日続けることが出来ます。私は毎日、普通に出来ることをやっています。
今、地獄の苦しみをしている子どもの数は何人いるのだろう。そして、今、それを感じていない、惨めな子どもはどれだけ。
『学び合い』を否定する人の言葉を読むと、「何かを教える」レベルのコメントが多い。そんなレベルで考えているのではない。
兄弟がいました。弟は特別支援の必要な子。その子が親にある時、聞いたそうです。「お母さん、お兄ちゃんのところには毎日、友達が遊びに来るけど、僕のところには何故来ないの?」と。書きながら、胸が苦しくなります。
そのために、焦ります。急ぎます。そして、政治をします。下げたくない頭を下げます。『学び合い』での「おりあい」、それを自分にも課します。
■ [親ばか]クリスマス 11:51
今年はサンタさんを信じたクリスマスでした。来年はどうかな?