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2011-12-30

[]今から十年前、今から十年後 17:46 今から十年前、今から十年後 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 今から十年前、今から十年後 - 西川純のメモ 今から十年前、今から十年後 - 西川純のメモ のブックマークコメント

今から10年前の「学び合いの仕組みと不思議」(東洋館)で以下のように書きました。

『本書、及び前著において、クラス内で学び合わせる方法とその意味を述べた。しかし、同じ学年の40人の子どもたちだけの学び合いには限界がある。やはり教師が全面に出なければならない場面も多い。筆者としては、出来るだけ子どもを全面に出したい。そのための鍵と感じ、現在研究しつつあるのは「異学年」の学び合いである。優れた部における先輩・後輩の学び合いを、教科活動の中に取り入れたいと考えている(即ち、学び合う学校)。

 この異学年の学びは、言葉としては受け入れやすいが、教科学習の中に異学年を取り入れることをイメージする事は難しいだろう。一人の教師が、同時に二つの内容(例えば5年生の内容と、6年生の内容)を語ることは出来ない。したがって、一人の教師が40人の子どもを教える図式で解釈すれば、教科学習の異学年は不可能になる。しかし、子どもたちが学び合うことを基本におくならば可能である。この学び合いを想像できる方も、異学年=お兄さん、お姉さん/弟、妹の図式で考えがちである。しかし、実際は学年の差はありつつも、固定的な教える/教えられる関係は無くなる。例えば、職員室での関係を思い出して欲しい。先輩教師や後輩教師との関係は固定的ではない。最初は、それなりに堅いものであっても、しばらくすると馬鹿話もするようになる。先輩教師をそれなりに立てつつも、からかったり、遊んだりするようになる。教え方、校務分掌にしても、はじめは教えられる一方だった後輩教師が、逆に、先輩教師に教えるようになる。つまり、雰囲気のいい職員室、それが、学び合いが成立した異学年の姿である。この姿は現在実践研究を進めている段階である。

 さらに、異学年にとどまらない。学校同士がネットワークで結びついた学び合い(即ち、学び合う学校群)、学校外の一般社会と結びついた学び合い(即ち、学び合う社会)を模索している。それによって、社会みんなが救われるのではと考えているが、こうなると宗教に近くなってしまう。筆者の研究室所属のゼミ生には「最終的には「学び合う宇宙」までいけたらいいな」といって、ほら話を締めくくることにしている。

 あなたの前にいる子どもたちを全て救うことが出来る。それも簡単な方法で。こんな夢を一緒に共有しませんか?』

 10年前は理論的そうなるだろう、というレベルでした。が、今は「学び合う社会」の雛形は数年のうちに実現できるところまで来た。我ながら本当に驚いた。

 25年前に大学教師になった。その頃は、高校教師だった時、救いきれなかった子どもの姿を必死に忘れようと思い、とりつかれたように研究し、論文を書きまくった。大学院の同級生からは、どの学会誌を見ても「おまえの論文がある」と言われた。多くの学会から賞を頂いた。達成感もあった。が、自分のやっている研究は研究としては正しいが、自分の心の中にある教師の心に響かなかった。

 平成8年度から意を決した。それまで部分的にやっていた子どもの姿を徹底的に見るという研究にシフトした。その中で『学び合い』を形成し、洗練し、発展させた。みずからの『学び合い』を陳腐化し、新たな『学び合い』に脱皮させた。が、その方向性は当初から全く一致している。なぜ、凡夫たる私がそれを分かったんだろう、と思う。でも、当たり前だと思う。私が創り上げたのではなく、そこにあったから。じゃあ、あと十年でどんな「そこにある」ものを見いだせるのだろう。

きっと、あと十年たてば分かるのだろうな。

[]妄想(校長) 16:24 妄想(校長) - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 妄想(校長) - 西川純のメモ 妄想(校長) - 西川純のメモ のブックマークコメント

 毎年、年末、年始に妄想します。まずは校長です。

 組織ですが、校長と教職員と事務職員の3種です。教頭は置きません。その代わりに教育法規に関わる試験(現在の教頭試験に対応するもの)を通った専門の事務職員を置きます。教員が現在書いている書類の多くは、事務職員が担当します。教員の数を一人減らしても、その種の書類を書くことに特化した事務職員を置くことの方が効率がよいと思います。

 教員生活を続けていくうちに校長になるわけではなく、あくまでも職種は別です。もちろん、教員経験者がなる場合もありますが、あくまでも管理職としての資格をもった人がなります。事務職出身者が校長になる場合も当然あります。その場合も、管理職としての資質をもった人がなります。ただし、事務職との「わたり」はありません。校長になったらば、基本的に校長として退職まで勤めます。校長としての資質が無いと判断された場合は、事務職や教員になりますが、それは降格と位置づけられます。教職員や事務職員とは別の資格を持った人が、事務職や教職員の実務経験の後に、おおよそ40代で校長になり、一つの学校での任期は5年程度です。小さい学校の場合は、複数学校の兼務もあり得ます。(現在の「良い教員が良い校長になる」というモデルは4、5人程度の部下を管理するのには可能ですが、それ以上であれば不適切だと思います。数十人を管理するときに必要なのは、部下がやっている仕事を熟知していることとは違います。)

 校長には大きな権限を与え、その代わり厳しい評価を課します。それでもなり手がいるような給与を与えます。

法的には校長には現在も大きな権限がありますが、実際は教育委員会等からの細かい「ご指導」を受け、「承諾」を受けなければなりません。そして、そのご指導や承諾は厳密な意味での法的な裏付けはありません。そのため、誰もその責任をとらなくても良いことになっています。「こうしたらいいのでは?」という示唆をしている形になっていますが、それに従わなければならないのが実態です。教育委員会等はあくまで示唆を与えただけですので責任を問われません。また、その示唆に従った横並び一線の校長群がいるのですから、個人として責任を負う校長は誰もいないのです。

 そのため、教育法規で明文化されていることに従っているならば、あとは校長の判断で出来るようにすれば良いと思います。ただし、明確な評価をします。現在の教育行政は「なにをやったか」ということを評価し、最終的な結果を評価しません。だから、いくらでも逃げ道があります。そこで、最終的な結果を評価すべきだと思います。

 第一に学力ですが、それは指導要領に従った標準試験を学期ごとにやります。(ドイツのアビチュアやフランスのバカロレアの拡大版です)。それが子どもの学力成績になります。もちろん、学校ごとにテストをして学力成績を出すことは妨げませんが、公的な学力成績は上記のものです。これは指導要領の縛りを付けられた学校(私立も)は全て受けなければなりません。なお、学校が学力以外の興味関心に関わる通知表を出すことを妨げるものではありません。校長の評価の第一は、この学力成績です。

 ただし、評価の観点は平均値だけはありません。それ以上に分散も評価対象です。そして、一定レベル以下の子どもの割合です。というのは平均値を上げるだけならば、約3、4割程度子どもを見捨てて受験勉強をさせることで上げることが出来ます。しかし、指導要領で求められているのは国民全員が達成すべきものです。なお、これは過去5年間ぐらいの成績を平均したものとの比較で評価されます。

 評価観点の第二は、学校に対する満足度です。具体的には遅刻・欠席率です。Q-Uテストでも良いのですが、あれは、それように指導すれば、それなりの結果を出すことが出来ます。

 評価観点の第三は、外部予算の獲得量です。なお、助成等のお金ばかりではなく、ボランティアとして参加してくれば保護者の数やのべ時間が評価の対象です。企画力のない校長や、保護者への説明責任を果たしていない校長は無理でしょうね。

 人事に対しても大きな権限を与えます。教職員は最低3年間は一つの学校にいます。そして4~6年間は本人の希望により異動できます。校長は不的確教員であると判断した場合、3年以内であっても教育委員会に申し立てることによって他校に異動させることが出来ます。そして、そのような異動が3人の校長からあった場合は、分限の対象となります。逆に、4~6年での本人の希望による異動の時、異動理由として「校長が不的確」という理由を付ける権利を教員に与えます。これは校長の評価の第四になります。なお、教員本人の希望と異動先の校長の同意があれば特定の学校への異動は可能となります。

 以上の評価の結果は公開され、第三者機関が判断し、評価が低い場合、降格もしくは分限の処分を与えます。

 さて、いかがでしょうか?やりがいがある一方、恐ろしいですよね。ごく普通にしていれば教職員として事務職員として定年までいけます。が、校長となると評価が公開されるのです。なりたい人はそれほど多くはいないですよね。でも、校長とは本来、以上のような仕事だと私は思うのです。では、給与はいかほどが適切でしょうか?それはポストの数が100だとして、資格を持った応募者が約100人となる金額が適切な給与なのです。(管理職のなり手がない、というニュースが流れていますよね。あれば、与えられた権限が小さく、評価は厳しく、給与はそれほどでもない、ということだと言うことです。)

[]妄想(教育内容) 16:24 妄想(教育内容) - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 妄想(教育内容) - 西川純のメモ 妄想(教育内容) - 西川純のメモ のブックマークコメント

 学校で教えていることが大事なことではない、ということは大人も、実は教師も知っているのです(そのことを明らかにした実証的な学術論文を書きました)。ところが、「これは必要だ!」と言うのは容易いのですが、「これは不要だ」という判断するルールがないのです。だから、問題が起こる度にお役所のマニュアルは厚くなり、必要な書類は多くなってしまします。

 では、どうするか?一つの案です。日本人の多くは高校を卒業します。そこで、高校卒業後10年後(つまり28歳)の成人をランダムに選び、その成人に小中高で学んだことをテストするのです。学校教育の目的は学を究めることではありません。大人にすることです。もし、大人として生きるに必要なものだったら10年後も残っているはずです。残っていないとしたら、その程度のものだと言うことです。

 そこで正答率が2割以上のものを選び出します。おそらく、現在、高校までに学んでいることの半分にも満たないものだと思います。それを義務教育での教育内容とします。それ以外のものは高校以上とします。そして高校では普通科高校は廃止し、特定の仕事に特化したキャリア教育をします。それぞれに必要な知識を深めるのです。(私は古典は現代語で読めれば良くて、「ありおりはべり」を理解する必要性のある日本人は殆どいないと確信しています。また、時間を含めた4次元の波動をイメージすることが必要な物理を、物理以外の理系学生が絶対に理解すべきとは思えないのです。)

 以前のメモ(http://bit.ly/sezACJ)に書いたように、 そもそも大人になって幸せになれるか否かを定めるのは何でしょうか?私は基本的には「就職」、「結婚」、「子育て」だと確信しています(http://j.mp/iwSVLY)。もちろん、人によっては「結婚」以外の永続的な関係を結ぶ場合もありますし、「子育て」は子ども以外に次世代に何かを残すという場合もあります。しかし、多くの人は、ごく普通の「結婚」、「子育て」だと思います。

 では、現状の学校で上記をやっているでしょうか?私は殆どやっていないと思います。例えば、「就職」に関しても、イベント的なキャリア教育が、中学3年とか、高校3年の時に行われるにとどまっています。しかし、私はもっと充実すべきだと思います。

 具体的には、小学校中学年以降は、週のうち2日程度は具体的にどこかに就職するのです。それもチームでやります。学び方はかつての徒弟制のように、徐々に、そして時間をかけて集団に入るという形です。(現在、上越教育大学の教職大学院では、それをやっています。)さまざまな職業を経験させながら、そこで必要となる知識をチームで『学び合い』を通して獲得します。

 そのようなチームでは男女を混合します。そして一定のルール(例えば避妊等)の中で、男女の恋愛は「奨励」するのです。(ビックリしないで下さいね)学校は異性とのつきあい方を学び、一生の伴侶を見つける場であると位置づけるのです。そもそも少子化の一つの原因は晩婚化であることは確かです。

 併せて、学校は保育園と連携して子育て経験をもっと増やすべきだと思います。家庭科では料理や裁縫を学びます。でも、料理は電化製品が発達しています。そして現状で裁縫をしている人がどれほどいるでしょうか?外注、つまり買ってすませているのではないでしょうか?しかし、子育てはどこまでも人が関わるものです。

[]妄想(教育方法) 16:24 妄想(教育方法) - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 妄想(教育方法) - 西川純のメモ 妄想(教育方法) - 西川純のメモ のブックマークコメント

 以下では『学び合い』を前提としています。

 小学校の学級担任制は廃止し、教科担任制とします。ま、文系・理系・実技系程度ぐらいをイメージしています。現在の学級担任制は、親子をモデル化したものだと思います。しかし、教師は親にはなれません。そして、人には相性というものがあります。3人ぐらいの教師がチームになって教育する方が望ましいと思います。(ちなみに、幼稚園や保育園でも、基本的にチームでやっています。小学校の方が変なのです)

 クラスは一緒に勉強する最少単位です。しかし、『学び合い』ですので、学年をも越えた様々な組み合わせで学ぶことが出来ます。あくまでも最少の単位にすぎません。ただし、ホームルームはクラスとは異なり、異学年で構成します(例えば、中学校1年~3年が各十人程度で構成されている。小学校1年~6年が各5人程度で構成されている)。つまり、一人の子どもは多種多様な集団の中で学ぶのです。

 以上のような柔軟なクラス構成をしているので、教職員は年休を取りやすくなります。なお、産休・育休明けだが子育てが忙しい教員の場合、勤務時間は10時~2時という勤務形態もありとします。普通の連絡事項は異学年や全校『学び合い』でやれます。職員会議は二週間に一度、昼休みにやればいいと思います。

 なお、自分が担当しているクラスが3クラスである場合、それをいっぺんに教えるならば担当時間は3分の1になります。これは法規上、何ら問題ありません。校長の権限がしっかりしれば、踏み切れる校長の数は多くなります(http://bit.ly/vt5pZF)。何度も書きましたが、学校で「ゆとり」が必要なのは子どもではなく教師です。

[]未来社会 16:24 未来社会 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 未来社会 - 西川純のメモ 未来社会 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 さて、妄想3連発(http://bit.ly/vt5pZFhttp://bit.ly/su7Ku9http://bit.ly/uLzp9N)を書きましたが、それは以下を実現させるための布石です。ドラッカーは未来社会をNPO中心に構築しようとしていました。しかし、私は学校を中心に構築しようと思っています。そのためには、それが出来る学校が必要だと思っています。

 社会をイメージするには人口構造が最も基本となるとドラッカーは看破していますが、私もそう思います。現在、「高齢化社会」がネガティブに捉えられていますが、長寿社会が問題なわけありません。富士山型の人口ピラミッドで成り立っていた高度成長はいつまでも続くわけありません。だからその時の時代に回帰するのではなく、釣り鐘型をイメージすべきだと思うのです。

 高齢化社会がネガティブに捉えられていますが、その原因は、高齢者を非生産者に位置づけられて、金食い虫と思われているからです。しかし、日本の退職者で仕事が出来ない状態の人がどれほどいるでしょうか?殆どいないと思います。日本人は「退職後は悠々自適のご隠居さん」を理想とするのではなく、「死ぬ前日までバリバリと働ける」ことを理想とすべきです。死亡の年まで間接税でも納税してもらえるならば、日本はもの凄く豊かな国になります。だって、一人の人に教育で投資した金額が、もの凄く長期間にわたって帰り続けるのですから。

 自営業の人は、それに近い人生を送っています。しかし、公務員や企業人もそういう人生を送るべきです。日本人は教育にお金をかけています。でも、退職教員が日本中にどれほどいるでしょうか?私の家内は子育て中で専業主婦ですが、長らく幼稚園・保育園の教師でした。日本中に保育士の資格を持っている主婦がどれほどいるでしょうか?外国語に堪能な海外勤務経験者の退職者がどれほどいるでしょうか?こんなのは序の口です。財務省にもない膨大な埋蔵金が日本中に死蔵されている。日本には教育を受けた労働力が死蔵されているのです。

 この労働力をどのように活用したらいいか?これは官庁の奥の院で決められません。決めても、殆ど機能しないでしょう。そして、それは市町村役場でも無理でしょう。というのは、そのような労働力は、個性が多様なのです。例えば、「何時から何時の勤務がしたい」なんていうのは序の口です。家から何分でいける範囲内というものもあるでしょう。でも、それ以上に「○○さんといっしょだったらやりたい」というものもあります。そして、○○さんといっしょだったら、○○さんの車に一緒に乗れば勤められる範囲は格段に広がります。若い労働力は、規格の中で働きますが、高齢者はそうはいきません。他人からは「我が儘」と思われるようなことを調整するには、その人を知っている人たちしか出来ないのです。

 私はそれが出来る地域コミュニティを構築したいと願っています。さて、今すんでいるところを思い浮かべて下さい。半径1km県内の人が「自分もやろう」と思う割合と強さが一番高い課題は何でしょうか?私は「我が子、我が孫」のため、つまり学校が最もそれに近いと思っています。

 学校が、まずは保護者を保護者集団にします。ミッションは「我が子」から「子どもたち」にするのです。そして、やがて保護者集団が学校に所属観を持ち、「息子の学校」から「自分たちの学校」となります。そして、『学び合い』の考えによって周りの人に声をかけ、ミッションをより広く、より多く、より多様な人を巻き込めるようなミッションにするのです。具体的には「一人も見捨てずに、最後の日まで人から必要とされる人生を送ろう」というものは素敵ですね。

 先に長々挙げた学校の条件が成り立てば、校長は大きな権限を持ちます。職員にはゆとりが生まれます。子どもたちという労働力があるのです。そして、学校という施設があります。校長は学校の管理者であると同時に、地域コミュニティの起業家になるのです。教職員や事務職員はコーディネーターになります。健康管理の資格を持つような職員が生まれ、地域の健康管理の仕事をするかも知れません。このような地域の中の『学び合い』の中で、学校の『学び合い』の中で子どもは成長し、大人になります。そして、保護者も『学び合い』を経験します。

 現在、どんどん過疎化が進んでいます。しかし、どんな過疎地にも凄い価値がある資源があります。それは親であり親戚であり、友なのです。その価値の大きさは教員養成系大学の教師である私は実感しています。学生さん達は、なによりも地元で働きたいと願っています。

 もし、自転車で10分以内に、何でも相談できる人が100人いたらどれほど素晴らしいでしょう。学校の空き教室で定期的に持ち込みパーティが開かれます。お金がかからず、そして楽しい。子どもを安価で安心して預けられる環境がそろっているならば、共稼ぎが可能となります。安価で高質な高齢労働者は、若年労働者に負けない市場を開拓できると思います。海外に工場を建てる必要はなくなるかも知れません。あ~、妄想は続きます。多くの人が多様なアイディアを出し、一人一人の「我が儘」を「おりあい」を付ければ、どれほどのことが出来るでしょう。

 私の考えるパラダイスは、生まれた時に数百人に祝福され、死ぬ時に数百人に見送られる、それが一人の例外のない社会です。私はそれのキーは学校だと信じています。それの具体化の道筋を数年以内に達成したいと「妄想」しています。

 客観的には妄想ですが、私にはリアルに想像できる。第一に、上記の十分の1でも実現できるならば、現状よりはかなり「まし」であることは120%確信しています。