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2012-01-02

[]議論したいな 16:41 議論したいな - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 議論したいな - 西川純のメモ 議論したいな - 西川純のメモ のブックマークコメント

 『学び合い』批判や疑問に対しての私の議論の仕方の手の内を公開します。それを見ながらその手の文章を読むと面白いですよ。また、批判される方に対して、謹んで手の内をさらします。

 まず、前提として『『学び合い』は「一人も見捨てない」を目指していることので、それに立脚しない立場に関しては基本的前提が違うのですから、「見解の相違で終わりにしましょう。」』と言います。これに対して判断する人はまずいません。いたらば、日本国憲法や教育基本法をもとに論破すればいいのですから。希に「見捨てるとはどういうことか?」と聞かれる方がいます。その場合は、相手が考える「見捨てる」という考えを正せばいいことです。そこから、教育基本法第1条や日本国憲法の第三章を引用しながら決めればいいことです。(おそらく、以下の議論が深まると、大抵の方の場合は、そんなことあまり気にしていないことが分かりますから)

 次に、「私は『学び合い』がパーフェクトであるとも魔法であるとも主張していません。あくまでも相対的に「まし」でることを主張しています。従って、批判する場合はそれよりも「まし」な実行可能な代案を提示して議論しましょう。」と求めます。否定は素人でもできるが、実行可能な代案を出しうるもののみが専門家です。これまた、反対する人はいません。

 これが求める最低限の前提です。怒り(もっと正確には自分の今の立場が否定されることに対する恐怖)で一杯の方の場合、この前提に立つ前に、怒りにまかせた言葉で埋め尽くされます。私はこの前提に立てて、冷静な議論を出来る人を求めています。

 さてこれが成り立った後は、その方の批判の内容を聞きます。というのは『学び合い』を批判されている方は『学び合い』をちゃんと勉強されているわけではありません。従って、何らかの誤解をしている可能性が大です。ですので、どのような誤解をされているかを把握しなければなりません。

●「教師はこうあるべきだ」、「教育はこうあるべきだ」

 「『学び合い』では教師が教えることを放棄している」、「私語、立ち歩きを許している」等の批判があった場合、「教師が板書して発問しなさいと関係法規のどこに規定されているでしょうか?私語・立ち歩きがいけないと関係法規のどこに規定されているのでしょうか?」と聞きます。「法で規定されているのは、人格の完成であり。指導要領で規定されていることを国民全員が達成することです。それに沿っているか、いないかで議論しましょう」と申します。「教師はこうあるべきだ」とか「教育はこうあるべきだ」ということで申される方の場合、この段階で根拠を失います。

●大事なことを教えていない

 『学び合い』の入門段階では非常に単純な課題を与えます。そうなると「『学び合い』はテストの点数を上げたい教育だ」、「教科で学ぶべきことはそんなレベルのことではない」という批判があります。これに対する議論の方法は色々ありますが、典型的なのは、まず、その人が学ぶべきだと思っていることを聞きます、そして補助的な質問をしながら、それをハッキリと定義してもらいます。次に、「それを全員が達成することが出来るのでしょうか?」と聞きます。それに関する能力が相対的に低い子や、知的・情緒障害の子が出来るかと問います。こうなると無理だということは分かります。そこで、「『学び合い』では一人も見捨てたくないので、一人一人が支え合うクラスをつくります」と思うします。なお、苦し紛れに「私なら出来る」と言われる方には「素晴らしいですね。でも、多くの教師はあなたのようにはなれませんよ」と申します。「そんなに辛くはない」と言われる方には、「そのようなクラスでどれほどの苦しんでいる子どもがいるか」を語ります。

●子どもに教えら得ない

 「子どもに教えられるわけない」と言われる方は、多くの子どもが分からないところが分からないのです。いたしかたありません、認知心理学のエキスパート・ノービス研究でも明らかですが、熟達者は分からない人のことが分からないのですから。そこで、子どもたちの躓いている原因の大部分はとてつもなく単純なことであることを実証的データから示します。事実、個別支援をした教師であれば、自分が言っていることの大部分は「そこに書けば良いんだよ」とか「ほら、個々読んで」レベルのものであることを思い出せるはずです。そして、日本ではクラスの2割は塾・予備校・通信教材で既習であることを述べます。

●遊び回ってしまう

 あんな自由にさせれば規律のない子どもになる、と言われる方の場合は、規律を守れない子どもを頭に思い浮かべています。そこで、教師の言うことに従う子どもが2割いることを述べます。その子どもたちとクラスを経営する方が「まし」であることを述べます。そして、民主国家における規律とは何かを議論します。

 上記の議論を通じて、「一人も見捨てない」ということと「では、あなたはどうされているのですか?」ということを積み上げていくのです。

 が、大抵の方の場合、私が上記のことを言い出すと、感情的に怒り出すか、論点がどんどん飛び回りはじめます。私は、それを必死になって論点を動かさず、一つ一つ積み上げるようにします。が、そうなるとさらに論点がさらに飛び回り、合間合間に感情的な言葉を入れ始めます。

 ま、気持ちは分からんでもありません。私も解析学の最初の部分で「xが0に収束する時、limxは0になることを証明せよ」という問題を見た時、「なんじゃこりゃ?」と思いました。そしてイプシロンデルタ論法を読んでも、なんか屁理屈をこねているだけとしか読めませんでした。そのが理解出来るようになったのは、解析学を最初から学んで実数とか連続とかの意味を理解してからです。

 私が『学び合い』が「まし」であるということに確信を持っている理由は非常に単純です。第一に、「一人一人は多様であり、多様な支援を必要としている。そのような支援を一人の教師が背負うより、クラス全体で背負った方が「まし」である」という至極単純な理屈です。第二に、多くの人は教育基本法の「人格の完成」を建前としています。しかし、我々は、目の前にいる子どもの大人になった時の幸せを保障することを求められています。それが教育基本法第1条の意味だと思っています。ところが、それに応えるレベルでの議論する方がいないのが残念です。そんなことを考えなくても勉強し、それなりに幸せになっていく子どもは日本の半数以上です。しかし、私が教えた最底辺校の子ども達は、多くの方の言われているレベルでは動きません。私は、その子達を常にイメージしています。だから、「一人も見捨てない」ということに関しては「まし」と確信しています。

 以上に関して疑問や反論がある場合は、いつでもお応えします。ツイッターでも結構ですが、140文字では難しいので電子メールでどうぞ。ただし、大人の議論が出来る方のみです。大人の議論が出来ない方の場合は無視しますので。ただし、今までのやりとりの中で、そのような方は十人もいません。また、氏名や所属を明記して下さい。従って、ツイッターの場合は、それを明記している方が対象となります。私は常に公開しております。なお、電子メールでのやりとりは必要の場合は公開します。当然、私のメールを公開することはOKです。

 今までの経験では、一部の大人のやりとりの出来ない方の場合以外は、実り多いものが得られます。議論は勝った負けたではなく、新たな視点を得ればいいことです。前提が違うならば、結論が違うのは当然のことです。結果として、両者の意見が不一致に終わったとしても、自分がどのような前提に立っているかを理解できるだけでも学ぶものは多いと思います。

 かなり挑発的な書きぶりですが、お詫びします。ただ、ただ、大人の議論を出来る反対者から多くのことを学びたいと願っている次第です。

[]高校教師 16:41 高校教師 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 高校教師 - 西川純のメモ 高校教師 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日、大学の同級生だった高校教師と議論しました。そこで面白いことが分かりました。私の疑問は、何故、急激に高校教師が教育に目を向けるようになったかと言うことです。『学び合い』の会に参加する高校教師の数も急増しています。私が高校教師だった頃は、「教育を学ぶなんて二流の教師のやることだ。教師は、教科を深く、深く理解すればいい」というような教師が教師集団を主導していました。

 同級生によれば、高校における異動が行われるようになったからだ、ということです。なるほど、と思います。かつては組合が絶大な力を持っていた時代は、「希望と承諾」が異動の原則でした。結果として、異動はなかなか行われません。行われても、似たような学校同士での異動です。結果として、二十年以上も一つの学校にいつづける教師もいます。そうなれば、一つのパターンで何とか出来ます。有名進学校の場合であっても、要は大学試験問題のパターンを理解し、その傾向を理解できればいいのです。これだったら5年もやれば普通の教師であってもある程度の専門家になれます。また、私が勤めたような最底辺校の場合でも、それなりの教え方のパターンを理解すればいい。第一、そのような学校の場合、兄弟同士が進学する場合は少なくないので、それらのネットワークを利用すれば、子どもたちを掌握することは出来ます。そして、その効果は、長く勤めれば勤めるほど高まります。

 ところが、異動すれば、それらが完全にチャラになってしまいます。そのような背景から、学校が異動しても普遍的なものを見出す必要性を主導的な教師が気がついたのだと思うのです。

追伸 3年前に高校教師が私のゼミに所属した時、最初にやりたいテーマは「校内研修の活性化」と言った時、私は腰を抜かしました。

[]議論 09:44 議論 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 議論 - 西川純のメモ 議論 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は行動学を学びたくて生物学を学びました。しかし、行動学の専門家が筑波大学にいなかったため数学と物理学にのめり込み生物物理学を専攻しました。しかし、今も生物学研究をしています。ホモサピエンスという高等生物の、教育という高度な行動を研究しているつもりです。

 ネットサーフィンをしていると、残念ながら、現状で『学び合い』を批判されている方で議論できるレベルの方が少ない。『学び合い』(もしくは私)が大嫌いだという感情が前面に出て論理やデータが弱い。でも致し方ないと思います。現状は無視から怒りの段階ですから(http://j.mp/ijI668)。やがて取引の段階に進むでしょう。そうすれば大人と大人の議論が出来るようになります。待ち遠しいと思います。

 心の中で『学び合い』(もしくは私)が嫌いな方がいても致し方がないし、当然と思います。が、それを公的にのべつに述べるというのは大人の作法ではないと思うのです。そうではなく、感情を公的には秘めて、淡々と議論していただける『学び合い』批判の方が生まれていただければ、私も学ぶものは多いと思います。

 『学び合い』は一人も見捨てないという願いに発しています。おそらく、それに反対する方はいないでしょう。もし、それを前提として議論を進められたら、実り多いと思います。もし、それを実現するによりよいものがあれば、私は直ぐに受け入れ、学びます。『学び合い』の十数年の歴史は、まさにそれをしている歴史なのですから。十数年前の『学び合い』は、現在の私は、従来指導型『学び合い』として一線を画しています。そして、今の『学び合い』も十年後には、私は否定的に見ているでしょう。

 ただし、私は研究者です。オリジナリティで勝負する職業です。人から指摘される前に、自分が見出すつもりです。なにしろ、『学び合い』の利点と限界を、最も多くの人から情報を得ているのは私だと思っていますので。

 私の好きなドラッカーの言葉です。『自らの製品、サービス、プロセスを自ら陳腐化させることが、誰かに陳腐化させられることを防ぐ唯一の方法である。』デュポンはそれだからこそ、長年、業界の巨人であるのです。そのためには、多様な情報収集は必要ですから。

追伸 ただし、論理的に証明するではなく、説得することに最大の効果があるのは、論理でもデータでもなく、「みんながそういっている」ということであることは変わりありません。結局、広がることしかありません。そのためには、分からない人と議論するより、分かる人に伝えることに力を注がなければならないと言うことは確かです。周りが変われば、納得するか、意固地になるか(ラガート)の二通りですから。