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2012-08-11

[]ゼミ目標 16:09 ゼミ目標 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - ゼミ目標 - 西川純のメモ ゼミ目標 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 超長文ですが、我がゼミの皆さんに私が求めることを書いたものをそのままアップします。

本研究室の目標を「自分の心に響き、多くの人の心に響く教育研究を通して、自らを高め、一人も見捨てない教育・社会を実現する」としました。

 おそらく皆さんの本当の希望は「自分の心に響き、自らを高め」であると思います(単に修了・卒業したいレベルの人は、西川研究室に所属しよう何て思いませんから)。実は私もそうです。しかし、そのレベルを超えた目標を、研究室の目標として掲げることは重要だと考えています。

 世の中には倫理学というのがあります。大学生の頃、それを読みあさった時があります。でも、カント、ヘーゲル、西田は全く分かりませんでした。相対的に分かりやすかったのは和辻です。でも、それでも分かりませんでした。それいらいずっとご無沙汰でしたが、「利己的なサル他人を思いやるサル」 という本はどんな倫理学の本より面白く、ためになりました。それによれば、サルにおいても倫理的と思われる行動が見られます。そして、その行動が発生する理由は、その行動によって間接的に利益を得るからです。つまり、弱い仲間を助けたサルは、その群れの他のメンバーから「お返し」が来るんです。なぜ、そんな「お返し」をするかといえば、自分が弱い立場になった時の「保険」みたいなのものです。カント、ヘーゲル、西田のように、どっかに純粋無垢な「善」があるように書かれるのではなく、生々しく、かつ、凄く納得出来るものです。我々は、学び合う能力は本能の中にあると考えています。だから、ゴチャゴチャ言わなくても、自然に発生するものだと信じています。上記の知見は、教師がゴチャゴチャ言わなくても、自然に助け合いが起こるであろうと期待出来ることを証明するものだと思います。

 しかし限界があります。別な猿学者の「ケータイを持ったサル」という本によれば、サルが自身の群れと感じる範囲は極めて狭く、基本は親兄弟で、広がっても普段見知っている集団を越えることは無いそうです。そして、現代の「ひきこもり」や「傍若無人の若者」は、人間の本能の中に組み込まれた「群れ」の範囲がサル並だと考えると、至極当然に解釈出来るとしています。おそらく、これは若者に限らず、人間全般の本能の限界と考えるべきなのでしょう。例えば、年配のおばちゃんが、人の迷惑考えず大声を出しているのは、自分が話している以外の人を、「群れ以外」と分類し、人と認識していないからです。

 私はサルと同じように、自身の損得と、社会の損得自身を冷静に分析し、社会の損得に矛盾しない自分の損得を設定することは「得」だと思います。 つまり、みんなを助けるという社会的要請に応えることが自分の得になっていることは、サルと同様に人間でも正しいと思います。ただし、人間の本能に組み込まれている 「みんな(もしくは群れ・社会)は、サルと同様に親兄弟、もしくは見知った狭い集団レベルが限界なのだと思います。教師の例で言えば、せいぜい自分の学校の職員集団 レベルで、それを越えた集団を群れと認識することは困難で、従って、郡市レベル、県レベル、日本レベルの集団に対する倫理的な行動をすることは困難なのだと思います。それを越えられるのは、本能ではなく、教育によらねばなりません。

 私の大学院の同級生に「教材レベル」の修士論文を書いた人がいます。修了した時に、「お前が作った教材を お前自身が使うの?」と聞きました。彼の返答は「使わない」とさばさばと答えました。つまり、彼にとっての、その教材は自分が修了するため「だけ」の意味しかありません。仮に、自分が使ったとしても、それだけでは、自分のため「だけ」の意味しかありません。ただし、これは教材レベルの研究に限りません。もし、自らが2年間かけてなしたものを自らが使わないならば・・。仮に、自分は使うとして、それを他の人に知ってもらえないならば・・・。私の知る限り、2年間の研究が終わったとたんに、「思い出」の中に死蔵される研究が多すぎるように思います。そして、そんな人は「損」だと思います。

 私には、自分のため、家族のため、そして自身の狭い群れである西川研究室のためという、相対的に狭い範囲の目標があります。しかし、同時に「専門職大学院のため」、「上越教育大学のため」、「学会のため」、「地元教育界のため」、「日本の教育界のため」等々の様々なレベルの目標があります。そして、それぞれに矛盾が生じないよう、相互に関連づけています。そのような多層的な目標を持つため、様々な人とリンクを持ち、かつ、その援助を得ることが出来ます。その結果、とても「得」をしています。

 一方、比較的狭い範囲の群れのための目標しか持たない人もいます。人それぞれですから、完全否定するわけではありませんが、「損な生き方だな~」と思います。そんな「自分」だけの視点でしか捉えられないならば、結局、周りの協力も限られたものです。色々な場で、短期的には要領よく立ち回っているため、長期的には損をして、そのことに気づいていない人を少なからず見てきました。 要領よく「美味しい仕事」だけをかっさらって、「大変な仕事」をうま~く逃げる、そして口先だけは当たりがいい人っていますよね。そういう人って、本気でそれでOKだと思っているようです。でも、ちょっとの期間つきあえば、そのような人の「底」が見えます。そうなると、そういう人とのお付き合いは要領よく避けます。だって、そんな人とつきあうことは「損」ですから。

 以上の理由から、本研究室の目標を「自分の心に響き、多くの人の心に響く教育研究を通して、自らを高め、一人も見捨てない教育・社会を実現する」としました。是非、皆さんの中で、この目標を基に、多層的な目標群を設定して欲しいと思います。

 補足です。一人も見捨てない教育・社会を実現する、つまり日本を変えるということを掲げる意味は以下の通りです。

「日本を変える」は無理じゃない

 私はゼミ生に、我々は日本を変える集団だ、と語り、求めます。ま、「何言ってんの?無理じゃん」と思うのが普通です。が、私は信じています。これに関しては説明が必要ですね。

 権力者は日本を変えられるが、一般市民は変えられないと思いますよね?でも、思い出してください。ここ十代の日本国首相を思い出してください。名前を思い出せますか?そして、その人がやった「日本を変えたこと」を思い浮かべられますか?おそらく、十人を思い出せなかっただろうし、思いさせたとしても、その人がやった「日本を変えたこと」を思い出せない人ばかりではないでしょうか?

 日本は1億人以上の巨大組織です。そのトップが何らかの命令をしたとしても、それを実際に行うのは人です。例えば、十のことをやったとしても、それが閣議で大臣に伝わり、それが事務局長、局長、課長、課長補佐、係長という本省のラインで伝言ゲームをすることになります。そして、各段階では上の命令を解釈する部分があるのです。もし、解釈で0.9倍にしたとしたら、10段階の伝言ゲームをすれば、3分の1になってしまいます。その伝言ゲームは、地方の行政組織に伝わるのです。結局、日本国首相であったとしても、それを実現する末端までの数多くの人の協力がなければ何も出来ません。

 職階が上がれば、権力を持てば大きなことを出来ると思う人は、永遠に何も出来ません。何かを成す人は、どんな職階であったとしても、様々な人と繋がりながら、自らの夢を語ります。そして様々な人と繋がりながら、自らの願いを洗練させます。そんな人が願いを叶えます。

 無理と思う人は、「自分が無理」と思っているから無理なんです。でも、私は出来ると思います。なぜならば、私は「我々は出来る」と思っているからです。

 日本を変えろ、とゼミ生に語っている私は毎日何をしているでしょうか?非常に、規則正しい生活をしています。

 6時に起床です。直ちに着替えて家のカーテンを開けます。6時10分ごろ、まだ眠りたい、と言っている息子の布団をはがし、コチョコチョとくすぐります。家内が朝食と私の弁当づくりを始める頃に、息子の朝学習をチェックします。その合間に、メールチェックをします。7時10分ごろに息子と朝食開始、7時30分ごろ朝食終了。息子の仕上げ磨きをして、制服に着替えさせます。7時45分に家の前に集まる近くの子どもを学校に送り出します。直ちに車に乗って大学へ。8時に大学到着。直ちに、メールチェックをします。この時間帯までに、全国からの質問メールに応えます。11時30分に学食に行きます(50分には授業がおわり、混みますので)。11時50分に食べ終わり、メールボックスに手紙を取りに行きます。12時から2時半ぐらいまで学内の書類づくりやブログをアップします。2時半ぐらいに学生さんのいる場所でお茶を飲みながら馬鹿話をします。3時半ぐらいに研究室に戻り、メールに返答をします。6時ぐらいに院生さんの場所に行き、本日、問題がなかったかを確認します。6時45分に帰宅です。7時に自宅に着きます。直ちに息子に体温をチェックさせ7時10分ごろに風呂に入ります。風呂から上がって、息子の髪の毛を乾かします。息子がテレビを見ている脇で、メールに返信します。7時45分ぐらいに夕食開始、8時半ごろに終わります。その後、息子の仕上げ磨き、パジャマを着させ、8時50分には布団に入れ、添い寝です。9時40分頃に添い寝から出て、メールチェックをします。その頃、家内は風呂に入ります。10時半頃、髪を乾かした家内とテーブルでゴチャゴチャと話します。10時45分頃、メールチェックをして、11時就寝。

 私の1日は基本的に上記の繰り返しです。そして、私の過ごしている時間の最も多くの時間を費やしているのは、全国の見知らぬ人からのメールに返信すること、そして、ブログに記事をアップすることです。ごく普通のことを毎日、毎日、やっています。今まで私に質問メールをした方だったら知っているはずです。一度たりとも、不誠実に返信したことはありません。ときにはA4版で5ページ以上のメールも書いています。そして、きわめて早く返信しています。それをずっと十年以上続けています。

 どこに劇的なものがあるでしょうか?なんもありません。でも、この毎日の積み上げが日本を変えることであることに確信を持っています。現在、関西で『学び合い』が広がったのは、見ず知らずの3人の学生さんが土曜日に突然合いたいと言ってきたので2時間ほど話をしたことが原因です。現在、神奈川で『学び合い』が広がったのは、一人の大学生の方が、『学び合い』をみたいと言ってきたので相手をしたからです。宮城で『学び合い』が広がったのは、『学び合い』の会場で私に議論をふっかけた相手に、最後まで説明し続けたからです。福岡で広がったのも、高知で広まったのも、メールでの質問に最後まで返信しつつけたからです。・・・・・・。全部、全部、聞かれたら、頼まれたら、自分の出来ることをした、というだけのことです。

 そういう人たちが全国にいます。直に合うのは年に1度ぐらいかもしれません。いや、1度もない人もいます。でも、その方々の息づかいを私は感じています。それぞれの人がネットワークなり、その人たちが出来ることをやっています。一人一人のやっていることは劇的なものではなくとも、それらの積算したものは大きなものになります。さらに、1+1が2ではなく、4にも6にもなることを知っています。

 ゼミ生には、日本を変えることは凄いことをすることではない。自分の出来ることがあるはずだ。それをやればいい、と言います。例えば、ブログやミクシーでも良い。アマゾンの書評に書き込みをすることでも良い。知り合いに話すことで良い。どんなことが、その後に大きな変化を引き起こすか分かりません。そして、それが大きな変化を引き起こすことがなくても、もし、一人の教師の心に届けば、数百、数千の子どもに意味あることを成していることであり、尊いことであるとかたります。

 私はゼミ生に意図的に広い範囲の同志と繋がる機会を与えています。そして、彼らの成果がより広い範囲に影響を与える場を提供するよう政治をします。彼らは、今、数人の学生が学校を変え、地域を変えることが出来る可能性を感じ始めています。私が求めた日本を変えると言うことは、あながち荒唐無稽ではないと確信する学生が増えつつあります。

 つまり、日本を変える、というのは荒唐無稽ではないのです。「自分」と思えば、それはそうです。そして事実です。日本国首相だって無理です。でも、「我々」と思えば、それは不可能ではないのです。ポイントは自分ではなく「我々」なんです。

 では、出来るとして、何故、それを私はゼミ生に求めるか、そして自らにそれを課すか?それは、「得」だからです。一人の子どもに拘っている限りは出口はありません。むしろ一人も見捨てない集団を作ることの方が可能性はある。

 考えてみてください。日本を変えるということを大学生や現職者に言ったら、荒唐無稽と思いますよね。でも、クラスの子どもに一人も見捨てずに、と求めることは子どもにとっては同じように荒唐無稽です。だって、クラスと言ったって、話したことの殆ど無い子どもは少なくない。ハッキリ言って嫌いな子どももいます。ましてや異学年学習で百人を超える集団で『学び合い』、一人も見捨てるなと言ったって荒唐無稽だと思います。

 単学年の『学び合い』をしていると、「○○ちゃんは言っても聞いてくれない!」と涙ながらに教師に訴える子がいます。そして、保護者に先生が手抜きしていると訴える子がいます。十中八九、特定の一人、もしくは数人が「お世話係」になってしまった場合です。また、異学年学習で「教えるばかりで自分たちの勉強にならない」と訴える高学年がいます。これまた、高学年の数人が「お世話係」になってしまった場合です。残念ながら、それらの原因は、個にこだわっている教師の心なんです。とにかく、気になる子を世話する子がいて、なんとか問題が解決しているならば、それはありがたいという気持ちです。これを解決するためには、みんなが実は得であるということを語らなければなりません。

 そして、子どもたちは、その語りを聞いて、その教師の「腹」を探ります。考えてみてください。異学年の『学び合い』をしている教師が、「自分のクラス」のことばかり考えていたら、どうでしょうか?単学年の『学び合い』をしているとき、「気になるあの子」のことばあかり考えていたらどうでしょうか?ばれてしまいます。では、異学年の『学び合い』の時、その異学年のことを考えていたらOKでしょうか?私はそう思いません。おそらく、仲間や同僚だったらOKでしょう。でも、管理職とは認めてくれません。自分たちより上の次元で考えられ、それを自分たちの次元に矛盾無く繋げられるからこそ管理職と認められ、その管理下で動くのです。これを校長に置き換えれば理の当然ですよね。

 私は教師としては西川ゼミが高い成果を上げ続けることが求められています。そして、今、西川ゼミは二十代そこそこの学生も、学校をどうあるべきかを考えねばならない課題を持っています。いや、学校同士をどのように結びつけるか、学校と地域をどのように結びつけるかを課題としています。なれば、彼らに「日本を変える」という課題を与えるのは必然です。そして、彼らにそれを私が求めるためには、私自身の言動がそれに矛盾無いものでなければならない。そして、彼ら以上の視点で課題を考えられねば管理職として認めてもらえない。

 長々と書きましたが、以上に書いたことが、『学び合い』の学校観と子ども観に一致していることはお分かりだと思います。その「多様な」という言葉、「有能である」という言葉の意味が高いレベルなのです。もし、子どもにそれを求めるならば、教師もそれに矛盾しない言動をすべきです。でも、無理ではないのです。自分でやるのではなく、みんなでやればいいのですから。そして、それが得なのです。多様・有能であるという言葉の意味を限定的に考え、それで問題が解決される方ならばどうぞ。でも、スーパーマンでない凡夫である私はそれが出来ないから『学び合い』をやっています。

「日本を変える」は得

 私の指導教員は小林学先生です。本当に優しくて素晴らしい先生でした。東京都の高校の教師でしたが、若くして指導主事に抜擢され、そして、文部省の教科調査官になり、筑波大学の教授になられた方です。私が東京都から合格通知を受けた後、その小林先生にどうやったら出世できるかを聞いたことがあります。その時、小林先生が笑いながら話してくれたことです。

 小林先生は私に、「採用されれば、いろいろな研修団体の会に参加すると思うよ。その会に出席して受け付けをしたとき、何をする?」と聞かれました。ま、名簿に名前を書いて、会場に移動します。しかし、それでは駄目だそうです。小林先生曰く、受付の人に「何か手伝うことはないですか?」と聞くことだそうです。おそらく、最初は断られるでしょう。でも、二三度申し出ると、仕事が用意して待ってくれる。そして、終われば、打ち上げに参加します。そうすると、今まで出会えない人と会うことが出来る。情報が広がり、より高度な仕事が与えられる・・・・。

 この話を最初に聞いたのは学生の頃です。そのころは「ふ~ん。そんなもんか。つまり、頭を下げて仕事をすれば報われる」というような話として理解していました。ところが、大学に勤めるようになって、本当の意味が分かるようになりました。 小林先生の話は「出世」というものより一般性の高い意味が含まれています。人は等質な人とつきあうのは楽なのですが、得をするのは異質な人とつきあうことなのです。考えて下さい。人類の歴史の中での交易は異質な者同士の間でなされました。海岸近くの人は山の人と物を交換しました。それは海岸近くの人にとってはありふれた物が山では価値ある物であり、山ではありふれた物が海岸近くでは高価な物になるからです。だから、両者がともに「得」だと思うから交易が続いたのです。

 これは物ばかりではありません。情報もそうです。アメリカの社会学者が、結婚相手を誰に紹介されたか調査しました。その結果、親友や肉親ではなく、それほど親しくない知人からの人が多かったのです。何故でしょう?それは親友や肉親が知っている人は、当人も知っている人なのです。その人の中で相手がいないのですから。(実は私の場合もそうです。)

 さて、上記のことが分かり始めたのは、大学に就職してからです。大学の教員だと、二十代後半の私も現場のお偉いさんと一緒に飲む機会は少なくありません。そして、大学教員だと気楽に色々な話をしてもらえます。そこでの愚痴の多くは、使える若手がいないと言うことです。たいていの教師の視野は自分のクラスに限定され、主任レベルでも学校レベルに限定されます。そして、市や県レベルのことを考えている人は殆どいません。ところが、県指定・文科省指定の研究会があり、そこで汗を流してくれる若手・中堅がいないのです。教頭試験がちらつく年代には、そういう仕事を頼め、受ける人はある程度いす。しかし、それより若い年代では殆どいません。でも、どんな会でも若手・中堅・ベテランには別々な役割があり、それぞれを担う人が必要なのです。結果として、教頭試験がちらつく年代で市や県レベルの仕事をしても目立ちませんが、若手・中堅時代にそれをやる人は光るのです。だから、若手・中堅のお偉いさんの中での評価はある程度一致します。

 小林先生の話を最初に聞いたときは、若手の教員の側からの視点でしか見えませんでした。しかし、実は使える若手をお偉いさん達はひどく求めているということが分かりました。

 このことは私も当てはまります。私は四十代の前半に新しいコースの立ち上げの中心メンバーにいました。そして四十代前半に新しい専攻(教職大学院)の中心メンバーにいました。普通だったら数十人のチームで立ち上げますが、上記のコースの立ち上げの場合、その基本コンセプトをほぼ一人に任せてもらえました。そして専攻の立ち上げの場合、その基本コンセプトはもちろん、スタッフの構成に至るまでありとあらゆつことを任せてもらいました。当時の大学管理職はもちろん、立ち上げの中心メンバーの方々が私を信頼していただいたからです。

理由は、私が自分の研究室やコースというレベルではなく、常に大学や日本の教員養成をどうしたらいいか、というレベルで考え続けたからです。それも半年、一年のレベルではなく、十数年というレベルでです。結果として、関係法規の施行令・施行規則レベルのことを学びました。様々なことを事務職員の方から教えてもらいました。だから大学管理職にも議論をふっかけますし、ご下命をいただけば直ぐに案を提出できます。だって、既に用意しているのですから。結果として、自分の考える研究環境や教育環境を確保することが出来ます。

 事務職員の方々は、大学の置かれている環境が厳しいことを理解しています。しかし、それに対応すべき教員が少ないことを困っています。だから、私が議論をふっかけるような職員の方にとっては私は有り難い存在だと思います。つまり、互いにメリットがあるのです。これは大学管理職にとっても同様です。地元の偉いさんが使える若手・中堅を必要としているように私を必要としています。そして、私にとっては、自分の願う研究・環境を確保する権限のある管理職が私を認めてくれるのは有り難い。

 おそらく横並びのことを毎年やって、来年も同じようなことをする人にとっては志を高くする必要性はあまりないでしょう。そして、目の前の子どもが阻害されていたとしても、それは「その子が悪い」、「保護者が悪い」、「日本の教育システムが悪い」と合理化する人も志を高くする必要性はあまりないでしょう。

 が、その人は幸せなのでしょうか?起きている時間の殆どの時間を占めている勤務時間に誇りや楽しみが無くて幸せとは私には思えません。子どもを見捨てて合理化している人も安穏とはしてはいられません。今の時代の保護者は民主主義で育てられています。権利意識も高い、かつ、論も弁も立つ方がいます。

 学校の職場の教育力は著しく下がっています。無計画な採用計画の結果、年齢バランスが崩れたためだと私は確信しています。結果として、先輩のサポートを受けられない若手が大量に生まれました。逆に言えば、若手のサポートを受けられず、若手と同じ意識で授業をして潰れていく中堅が生まれました。考えて下さい。若手でも中堅でもベテランでも、どうしようもなく忙しい時や、家庭・健康の問題で頭がいっぱいになるときはあります。その時、ちょっと助けてもらえれば、それを乗り越えることが出来ます。しかし、普段の助け・助けられる関係が無くてそれが出来るでしょうか?自分のことでいっぱいいっぱいの同僚が助けてもらえるでしょうか?逆に、自分のことでいっぱいいっぱいのあなたが同僚を助けるでしょうか?無理です。そして、一般職員と管理職が対立的にすることによって管理しようとしている現状では、それらの職場の関係を改善するする力は管理職にはありません。

 今、教師の200人の一人は心の病で休職中です。ということは職場において一人や二人はその予備群という現状です。さて、このような状態が「幸せ」でしょうか?

 これを打開しようとしてスーパーマン教師や滅私奉公の教師になろうと努力している人がいます。が、スーパーマン教師になれるのはごくごく一部です。日本中の100万人の教師の中で千人もいません。滅私奉公でやれば家庭は崩れます。不良を救って、我が子を不良にしては幸せになれるわけありません。

 ではどうしたらいいか?自分の学年・教科・学校・市・県を越えた人と繋がることが「得」なのです。それも、あなたと異質な人と繋がることが「得」なのです。では、どうすればいいでしょうか?自分の学年・教科・学校・市・県を越えた志を持ち、それを実現する行動をすればいいのです。それ故、私は「日本を変える」という志を掲げているのです。もちろん最後に獄死するような革命家になる必要はありません。先に述べたように、毎日、普通にやれることをすればいいのです。

でも政治をしてください

 市や県が違う人と繋がれることは重要ですが、同時に、同じ職場の人と繋がれることも大事です。 私は筑波大学第二学群生物学類に入学しました。同級生は80人です。その中に非常に変わった人がいます。A君としましょう。A君は、私の学生宿舎の部屋の隣の隣です。ところが、彼を宿舎で見かけることは殆どありません。A君は授業で見かけることは希ですし、いても目立ちません。なにしろ「A君としゃべった」ということが同級生の中でホットな話題となりました。我々はA君は人と話すことが好きじゃない人なんだな~っと思っていました。ところが、「A君が、知らない数人と話していた。それも笑いながら!」という驚愕のニュースが同級生の中で流れました。みんなは信じられませんでした。

 しばらくして、A君はある宗教団体に属していること、そして、その宗教団体の人とは話すこと、ということを知りました。そして、それによって、その宗教団体のことをカルト的に捉え、非常に嫌な印象を持ちました。その宗教団体にかぶれるとA君みたいになるんだな、と思うようになったんです。そして、A君は途中で退学しました。同級生との関係を絶って卒業できるほど大学は甘くはありません。A君も同級生との関係を絶って卒業できるほどの能力はありませんでした。

 他山の石です。『学び合い』を知れば、多くの教師が「良し」としているものを全く別な視点で見ることになります。多くの教師が見逃している「アラ」がよく見えてしまうのです。私は『学び合い』が従来型に比べて圧倒的に優れていると思います。従来型と「いいとこ取り」のようなことが出来るような差ではなく、圧倒的に優れていると思います。が、それは従来型と『学び合い』の比較です。従来型の授業をしている人と『学び合い』の授業をしている人の比較ではありません。圧倒的大多数の教師は善意の人です。そして、我々はみんな愚かである部分を持っています。みんな同じです。変な選民意識を持ってしまえば、A君のような行動になります。そして、A君のような行動をすれば、『学び合い』がカルトのように思われてしまいます。それは本人にも『学び合い』にも不幸です。

 教職大学院・教職デザインコースとは

 教職大学院・教職デザインコースには、修士論文・卒業論文が必須として課されないという特徴があります。ただし、これは必ず書けとは言われないですが、書いてはいけないという意味ではありません。また、修士論文・卒業論文は必ずしも書かなくてもOKですが、修了や卒業に値する何らかの成果物が必要です。教職大学院・教職デザインコースは「研究しない」というようは消極的な大学院・コースではありません。本当に実践に役立つ能力を得て、その成果を周りに広げる成果物を書かなければならないという積極的な大学院・コースです。ただ、その形が修士論文・卒業論文に限られないのです。

 西川研究室の考える教師の職能

 圧倒的大多数の善意の教師と私の思っている教師の職能は全然違います。たいていの場合は網羅的な知識・技能が必要だと思います。授業記録や指導案の書き方は基礎的だと思っています。そう思っている先生方が善意である故に辛いのですが、私はそうは思っていません。『学び合い』に至った考えと同じです。たしかに、それの有効性を全面的に否定するわけではありません。しかし、それが有効である場面は、それほど多くはないのです。教師が勤める学校は千差万別、教える教材は千差万別、教える子どもは千差万別です。だら、個々の知識、個々の対応を覚えるとするならば、そりゃきりがない。 じゃ、何が必要かと言えば、 私の考える教師に職能は以下の三つです。網羅的、箇条書き的な普通の教師の職能とはかなり違い、静的ではなく、動的に職能をとらえています。 1)子どもや親のせいにしない。確かに、それが原因なのかもしれないが、それを言ってはおしまい。 2)尊敬すべき、先輩、後輩を捜し、その人といっぱい雑談をする。見いだす方法は、子ども「たち」、地域、保護者に聞けばいい。そして、地域、保護者とのつながり方も先輩・後輩から学べばいい。 3)まねられるところはまねる。まねられないところは、まねる必要はない。今の自分のままで、出来る授業はある。 補足します。 第一の職能がないと、教師の進歩は止まります。教師が求められる能力は多種多様です。例えば偏差値70以上の子どもたちを相手にするのと、暴走族だらけの子どもを相手にするのとでは、求められる対人能力も教材の力も全く違います。小学生を相手にするのと中学生を相手にするのでも違います。また、同じ学校、同じレベルの子どもを教えるのだって、自分が二十代前半であるときと、四十代後半では全く違います。学問的にそれを抽象化することは出来ますが、理論物理学者が車を作れないのと同じ理由で、現実の教室では無力です。結局、教師にとっての最高の教師は「子どもたち」だと思います。子どもたちに教えられながら、常に学び続けなければならないわけです。 若い先生の場合、過去の自分の経験や、他人の経験を知りません。そのため自分を相対化できません。さらに、年を経ると、失敗しても、その失敗を目立たなくするノウハウは確実に増えます。その結果、職員室の中で、あたかも自分だけが駄目のように感じてしまいます。いえいえ、中堅・ベテランでも追い詰められると、自分だけが駄目みたいに感じます。 でもね。今まででは通用しないのは、ごくごく当然です。子どもも変わり、自分も変わっているのですから、調整しなければならないのは当たり前です。これは、『学び合い』だって、一斉指導だって同じです。それが嫌になると、子どもや保護者のせいにしたくなる。人情です。でも、このブログを読んでいる方々だったら、そうした先生がどのような先生であるかは「よ~~~~く」ご存じなはずです。もがくしかありません。もがくのが当たり前です。偉そうなこと言っている私も「当然」、一杯失敗し、落ち込みます。でも、もがくから成長もあります。少なくとも、もがかなければ、現状維持はあり得ません。 でもね。人の能力なんて、たががしれている。もがいても解決できないことが殆どです。そんななかでもがき続けるなんて、神仏でなければ出来るわけありません。当然です。では、子どもや保護者のせいにして合理化する教師になるか、成長しつつけることの出来る教師になれるか、その分かれ目は何かといえば、それが2番目の職能です。これって大事です。自分が分からないこと、困っていることを、解決する方法をこともなげに教えてくれる人っているんですよ。「あ、それね。あははは。知らない人は、なやむよね。それってね・・・・」と教えてくれる人っているもんですよ。答えを知っていなくても、一緒に考えてくれる人はいます。そして、何よりも愚痴を聞いてくれる人はいます。 教えてもらえる、一緒に考えてくれる、そして愚痴を聞いてもらえる。そこで得られる最大のものは何か?そりゃ、もう一度、自分で考える勇気をもらえることなんです。教えてもらえることでさえ、結局、自分の場面にそのまま使えるものではありません。やっぱり、子どもたちという教師の教師の前で実践して、自分でもがくしかありません。これは『学び合い』も同じです。 私も落ち込んだとき、いつまでも愚痴を聞いてくれた先輩教師が、十数人の職場でしたが片手以上いました。職員室の横のお茶飲み場では足りない時は、その愚痴を聞いてくれるために酒場や自宅で「奢って」もらえる機会が、週1回以上はありました。今から考えると、驚異的に恵まれていたと思います。でも、今の職場は年齢バランスの崩壊や、様々な要因で私のいた頃とはだいぶ様変わりしていると思います。その場合は、あらゆるチャンネルで繋がることが大事です。(でも、本当は『学び合い』が広がれば、職場が第一の場になると思いますが)さて、自分が悩み、人と相談し、再度自分で考えるとき重要なのが第三の職能です。溺れている人は浮いているものに必死にしがみつきます。でも、本当に重要なのは自分で泳ぐことです。あくまでも主体は自分であることを忘れてはいけないと思います。

成果を何で出すか

 学術と実践最終的に作成する成果物が何か、という点で、各研究室の特徴が現れます。西川研究室では「学術論文」具体的には、学会誌レベルの論文を成果物とすることを基本としています。「え?!」と思われる方もいらっしゃると思います。でも、理由があります。教師は様々な能力が必要とされる総合的な専門職です。そして、それを獲得する場は様々だと思います。人間性全般に関しては、友人と遊ぶことによって獲得する場合もあるでしょう。一人で黙々と趣味に打ち込むことによって得ることが出来るでしょう。しかし、教師だからこそ必要な能力は、勤務校の実践の中で獲得する方法と、大学・大学院で獲得する方法があると思います。この教職大学院は、それらを融合した教育の場として生まれました。学術無しの実践で学べることだったら、わざわざ大学院に来る必要はありません。真面目に子どもと向き合っていれば、学び取ることが出来ます。逆に、実践に役に立つ「はずだ」と言っている学術が実践に役立ったということを私は知りません。実践に役立つならば、今、その場で実践に役立つことを実証出来るはずです。西川研究室では、学術が実践に役立つこと、逆に、実践が学術の基礎であることを、学術及び実践の成果で積み上げてきました。それ故、「実践の成果に基づく学術論文」を成果物として求めています。

ゼミ集団とは

 2005年3月8日のゼミの話です。ゼミの最後に「他のメンバーのことを心にとめて欲しい。そのためには、研究室にいて欲しい」と語りました。ただし、そこでとめておくと、「研究室にいる」という方法のレベルに止まり、「どれだけいればいいか」という低レベルな発想に繋がるので、以下のような話をしました。 私の指導教官は小林学先生です。嘗ては文部科学省(当時は文部省)の教科調査官で、私が中高で学んだ理科のカリキュラムを作成する際、中心的な役割を果たした方です。教科調査官という仕事柄、日本全国の色々な学校に行く機会を持ちました。小林先生によれば、どんな学校に行っても、その学校の理科室に行き、そこに生き物(特に水槽で飼っている水生生物)を飼っているかどうかを見るそうです。それを見ると、その学校の理科の先生の力が直ぐに分かるそうです。理科室の様子の殆どは、直前になんとかすれば何とか出来るものです。文部省の教科調査官が来るということで、あわてて整理整頓する人もいます。でも、生き物は別です。あわてて整理整頓する人だと、水槽にまで気が回りません。また、気が回っても、水槽の水草・コケの様子をみれば、やっつけ仕事か否かはすぐに分かります。小林先生は、その話をされたあと、私にどうやったら「金魚を殺さずに飼えるか?」と質問されました。皆さんは金魚の飼い方のポイントは何か、ご存じですか? 同じように、学生に質問しました。矢面に立ったYは「水槽をきれいにしたり、餌をこまめにやったり」というような返答をしました(私もそのように答えたように思います)。そこで、Yに以下のように言いました。 そんなこと続けられるの?それに、そんなこと頻繁にやったらどうなる。例えば、毎日毎日、Yの頭を撫でてたり抱擁したりして、「頑張ろうね!」て言ったら?毎日毎日、Yがどれだけ研究をやっているかをテストして、それに対応した指導をことこまかにやったら?それでいいと思う? Yはほほえみと共に、否定しました。 小林先生がおっしゃったのは「毎日、水槽をのぞく」ということです。水槽の生き物を飼った人なら分かると思いますが、毎日毎日、餌をやったらば、水槽の水は濁ります。本当は、餌をやらなくても成り立つようなシステムを成立させることが大事です。それが成り立てば、餌をやる必要は殆どありません。金魚が出す糞は分解され、それを栄養として水草やコケが生えます。そのコケを金魚が食べるため、水槽はコケで濁ることはありません。結果として、水槽を掃除することは殆どありません。水槽の環境が悪化するのは、過剰に餌をやったり、過剰に日を当てたりするためです。それでは金魚を飼っている人は何をすればいいかといえば、「毎日、水槽をのぞく」ということです。毎日水槽をのぞけば、水槽の変化に気づきます。その変化を見れば、別に特別の学習をしなくても、どうやればいいかは常識の範囲内で解決できることばかりです。つまり、金魚の飼い方は、とてつもなく簡単なのです。ところが、多くの学校では、それが出来ません。何故かと言えば「毎日」水槽をのぞいていないからです。そのため、毎日のぞけば気づく変化を見逃し、問題が大きくなり、結果として水槽全体の生き物を殺すことになります。では、何で水槽を毎日のぞけないのでしょうか?その理由は、水槽の中の生き物を心にとめていないからです。 私が西川研究室のメンバーに求めるのは、他のメンバーのことを心にとめて欲しい」ということです。その理由は、それがなければ自分自身の自己実現はあり得ないからです。もし、他のメンバーのことを心にとめるならば、「どうなっているかな~」と思うはずです。そう思っていれば、それを見に行き、話したいと思うはずです。結果として、各人の無理のない範囲で「毎日」モニターしたいと思うはずです。それが「毎日」であるか否かは重要ではありません。また、それが1分であるか、1時間であるか、半日であるかも重要ではありません。「どうなっているかな~」という心が大事なんです。それがありさえすれば、あとは各人の状況の中で妥当な線が出されるはずです。 逆に言えば、問題が起こるということは、どんな良いわけをしても、「やったふりをした」ということを明確に示しています。結果は全てを証明しています。 ただし、一人一人が全メンバーをモニターするなんて無理です。各人の時間帯も違いますし、好き嫌いの相性もあります(当然です)。でも、一人も見捨てない集団を意識して行動して下さい。あなたと繋がれない人が、あなたの繋がれる人と繋がっているれば、それでOKなんです。