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2012-10-30

[]必要があれば 08:42 必要があれば - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 必要があれば - 西川純のメモ 必要があれば - 西川純のメモ のブックマークコメント

 2月8日に福島県伊達市立保原小学校で研究会があります。学校ぐるみで『学び合い』に取り組んでいる学校です。その関係で福島に行きます。

 現在、2月7日の3時以降と、8日の午前があいています。2月7日は15時3分に保原駅に乗ります。福島市に泊まります。8日は12時22分に保原駅に到着しなければなりません。この日程で可能であれば、私をお使いになりたい方、私に電子メール下さい。

[]あだ花 08:19 あだ花 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - あだ花 - 西川純のメモ あだ花 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 以下はネットブックとして公開している『学び合い』の手引き書に書いてあることです。それを読んでいない方も多くなったのでアップしました。http://goo.gl/KRwdd

 現在の一斉指導は、ホモ属250万年の歴史の中でせいぜい150年の歴史しかありません。つまり、0.006%です。逆に言えば、99.994%は『学び合い』でやってきました。そして、その0.006%時代でも学校教育以外では『学び合い』でやってきました。

 一斉指導は過渡的なあだ花なのです。それを万古不易だと思っている人が多い。歴史を知らない人です。以下、長文です。

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 我々の『学び合い』は言語という高度のコミュニケーション手段を持った群れる生物が、数百万年の生存競争の中で洗練したものです。意外かもしれませんが、人類の歴史の中で一斉指導が制度化したのは、近代学校制度が成立した200年弱だけです。それ以外の数百万年は『学び合い』で人類は過ごしていました。人類の歴史の中で一斉指導が成立したのも必然がありました。そしてそれが廃れていくのにも必然があると考えています。

 ほ乳類一般は、本能の他に学習によって生きるすべを獲得しています。猿人の時代から、人類はその学習に依存する割合の高い生物です。その学習は組織的なものではなく、血縁者を中心とした小さいコミュニティの中で、仕事に参加する中で学んでいました。それらは中世では徒弟制度と言われました 。ところが近世になるに従って身分制度が崩壊します。それによって農夫の子は農夫になるとは限らず、商人の子は商人の子になるとは限りません。米を作る農夫になるための知識・技能、織物商人なるための知識・技能は限られています。だから徒弟制度にでも伝えられます。しかし、あらゆる職業になるための大人を育てるには、あらゆる職業に必要となる知識・技能を教え、学ばなければなりません。そして、それらの共通の知識・技能を抽出すれば、個々の具体的な仕事・作業から離れていきます。その結果として成立したのは、職場とは別個の組織的な学習の場である学校です。

 当時の本は高価でした。コピー機もありません。学校で教える知識・技能を持っている人は、高学歴の一部の人だけです。つまり、教師からしか知識・技能を得ることはできません。一人の教師を雇うには予算がかかります。義務教育制度を維持することと、予算とのかねあいがあります。一人の教師が多数の子どもを教えるという一斉指導は当時の時代の必然です。

 ところが時代は変わりました。少子化によって保護者はお金をかけるようになり、都市部では塾・予備校などの学校以外の教育施設が一般化しました。しかし、これは都市部に限ったことではありません。本は安価になりました。通信教材も充実し、地方でも高度な教育を受けることが可能になり、事実、利用者は少なくありません。高等教育が一般化し、高校教育・大学教育を受ける人が多くなりました。結果として、学校で学ぶ知識・技能を持っている人は教師ばかりではなく、多くの保護者が持つようになり、通信教材を学ぶ我が子の横に座って教えることが出来る家庭が増えました 。テレビ・インターネットは学校教育では考えられない予算をかけた教材や、多種多様な教材を無料で与えてくれます。さらに言えば、日本の指導要領は全国民が学ぶべきことを規定しているものですので、極端に難しいことは求めていません。そして、日本の教科書は、その指導要領に準拠しております。そして日本の教科書は優秀ですし、副読本・参考書は多様です。従って、それらを利用すれば、自力で理解することが出来る子どもがいると考えています。その結果として、学校で学ぶ知識・技能を持っている「子ども」、また、自力で解決出来る「子ども」が出現するようになりました。『学び合い』はそのような「子ども」の存在を前提にしています。今から50年前には『学び合い』は不可能(もしくは困難)だったと思います。そして、現在においても発展途上国では困難だと思います。しかし、現在の我が国においては『学び合い』は必然となります。

 しかし、正確に言えば、『学び合い』を受け入れられる環境は1980年代、1990年代頃からは可能になっていたと思います。現在ほどではありませんが、塾・予備校に行く子どもはかなりいました。テレビでも良質な情報を流していました。また、良質な参考書は本屋にあふれていました。大卒の保護者も多くなりました。では、何故、1980年代、1990年代ではないのでしょうか?

 おそらく、保護者の変化が大きいと思います。私の時代は、保護者は戦前の教育を受けた人や、戦前の影響が色濃く残った教育で育った人たちです。それ故、教師が子どもを殴ったとしても「愛の鞭」と考える人たちでした。よほどのことがなければ、学校に怒鳴り込むということはありません。ところが、今の保護者はどうでしょうか?戦後教育で育てられた人に育てられた人たちです。自分の子どもの学力保障が成されていないとクレームを言います。自分の子どもが安心出来る環境を保障しないとクレームを言います。それが行きすぎた人をモンスターペアレンツと呼ぶ場合がありますが、親としての心情としては理解出来ます。そして、問題があれば納得するまで教師・学校に問い合わせ、求める親は多くなっています。

 従来型の授業では、必ず1、2割の子どもは、かなり厳しい状態におかれています。昔だったらクレームを言われなくて気にせずにいたのが、今はクレームを言われるようになったのです。行政もそれに対応して、クレームを言われないような自己防衛をし始めます。具体的には、「やっています」と証明するためのマニュアルや報告書を作成します。結果として、教師は書類作成に追われ疲れるようになります。そうなれば、保護者からのクレームに対応出来る心の余裕が無くなってもしょうがありません。

 さらにそれに追い打ちしたのは、学校の教師教育に対する教育力の低下です。十数年前から、少子化の対策として急激に採用を減らしました。ところが最近になって、少人数対策と大量退職に対応するため急激に採用を増やしています。結果として、教職員の年齢分布はフタコブラクダのような分布になっています。

さらに、交通の便利な学校の場合は、異動したがらず、結果としてベテランが多い学校になります。不便なところは新規採用者で補充するため、若手が多い学校になります。結果としてヒトコブラクダのような年齢バランスになります。

 年齢分布がフタコブラクダのような職場では、ベテランが若手を教えることになります。しかし、教え込むという形になり、若手にとっては抑圧されたという印象を持ちます。結果として、煙たがります。一生懸命に教えたのに煙たがられたベテランは「今の若い奴らは」となります。年齢分布がヒトコブラクダのような職場では、最初は仲が良いのですが、似たようなもの同士の「突っ張り合い」がおこり問題が起こると人格否定まで進む危険性があります。結果として、相互不可侵で落ち着きます。

私が教師だった二十年以上前には、職員室の横にはお茶飲み場があり、色々の話が出来る場所があったと思います。私の職場だった高校では、新任教員である私を飲みに連れて行って奢ってくれた先輩教師がいっぱいいました。今はどうでしょうか?ベテランの先生は「今の若い奴らはつきあいが悪い」と愚痴を言います。でもしょうがありません、飲みに行ってもつまらないのですから、付き合わないのです。私は週に1回以上は先輩と飲みに行きました。理由は楽しいからです。しかし、それは個々人の問題ではなく、年齢バランスと選択の幅の問題なのです。

 現在、指導能力不足で分限を受けている教師は、新任ではなく四十代の教師です。つまり、二十年以上教師をしていた人たちです。二十年使えた自分の指導が使えなくなり、改善できずに潰れていってしまったのです。使えた指導が使えなくなるのは当然です。子どもが変わり、保護者が変わっているからです。しかし、それ以上に変わっているのは自分なのですが、自分の年齢は自分では分からないものです。四十代になっても、頭の中は二十代のまんまということは普通です(私もそうでした)。しかし、子どもの前に立ったとき、子どもが教師に期待することは二十代前半の教師と四十代の教師とでは異なります。ところが、自分の年齢が分からないため、その切り替えが出来なくなります。しかし、若い教師と付き合えば自分の年齢が分かります。人間は関係の生物です。若い教師と付き合うことによって、中堅の振る舞いをするようになり、ベテランの振る舞いをするようになります。そして、若い教師に教えている中で、自分が学んでいくのです。ところが、そのようなことが出来ないと、昔のままの指導を続けることになり、結果として指導力不足になってしまいます。今の学校には、採用以来、ずっと最若年であるという三十代後半の教師はかなりいます。彼らは、学校において常に若手であり、中堅としての立ち位置に立ったことがないのです。

以上のような結果、自分に限界を感じている教師が増えました。

今までのことを捨てて、新しいことに取り組むというのは大変な決意が入ります。特に、いままででも「そこそこ」出来る場合は、ズルズルとなってしまう場合は少なくありません。考えて下さい。携帯電話の会社を変えたり、機械の会社を変えたりするのは難儀ですよね。ましてや授業を変えるのは大変なことです。

 本屋に並ぶ本の圧倒的大多数はテクニックです。それらは自分を変えなくても使えるものばかりです。まあ、今までの携帯に周辺機器やアプリを導入して機能充実を図るようなものです。ところが『学び合い』は考えを変えることを求めています。これは、携帯会社を乗り換えたり、同じ携帯会社であっても操作法が異なる別会社の機種に乗り換えたりするのと同じようなものです。嫌がるのは当然です。

 ところが、今、まさに、そうしないとどうにもしようがなくなっている時代になり、そして、今後はもっとどうしようもない時代になります。それが、今、『学び合い』が急激に広がっている理由です。