■ [大事なこと]慌てて
先ほど、一斉指導の入門書を来春に出すと書きましたら、「『学び合い』だけでは不十分ですか」という問い合わせが来たので、慌てて書きます。
『学び合い』でたやすく達成できるレベルのことを一斉指導でやるとしたら名人級の力量が必要です。だって、一人で全部やらねばならないのですから。『学び合い』だったら子ども達と一緒に出来るのですから、はるかに「まし」です。
しかし、私は採用1年目に暴走族相手に物理の授業をそれなりに成立させることが出来ました。自分で言うのも何ですが、私の講演会を聞いた方だったら分かると思いますが、私は一斉指導はうまいです。最近は腕は落ちましたが、若い頃はもっとうまかった。
じゃあ、どうして一斉指導がうまくいくか。理学部出身で教え方をほとんど教えてもらっていない私が1年でそれなりのレベルに達したのですから、そんなすごいことではありません。今まで類書で書かれているものとは別のことをやっていたのです。振り返ってみれば、実は『学び合い』の基礎に通じるものが有効だったのです。つまり、子どもの力を借りる一斉指導です。
そこを最初に書こうと思います。それから三十年間もがきながら、教え方に関する考え方が変わってきました。今度の本は私の三十年間を若い教師に追体験してもらうような本にしたいと思います。
そして最終章には『学び合い』が出てきます。もちろん書き切れません。あくまでも『学び合い』でやると今まで解決できないことが出来ることを書きます。そして、あとがきには「詳しくはステップアップ、スタートブックをお読み下さい」となるのです。
ね、私が何を狙っているかおわかりですよね。
が、自分で言うのも何ですが、私が持っている一斉指導のノウハウを使えれば、簡単に、かなりのレベルに達せます。今までゼミ生相手だけには話した内容を公開します。
■ [大事なこと]年長者の生き残り方
大学は教授、准教授、講師、助教という縦社会です。私はその中で生きてきました。助手(今の助教)時代、私に横柄な態度のA教授がいました。廊下で会って私が挨拶をしても、目もくれずに通り過ぎます。私は約十年間それを続けましたが、「きっと宗教上の理由で挨拶をしないのだろう(笑)」と判断し、私も挨拶をするのをやめました。
その私は上越教育大学の中で最年少記録で教授になりました。それが決まった直後のことです。A教授と廊下で出会いました。A教授は私に挨拶をしようかどうしようか迷っている様子がありありとしています。私は宗教上の理由から、その教授の横を目もくれずに過ぎ去りました(笑)。その教授は五十代後半から発言力も影響力も失い、いるかいないか分からない教授として退職されました。
それに対照的な教授がいました。若い私にも挨拶は欠かさず、声をかけてくれる人です。また、よき機会、よき仕事を与えてくれる人です。その人は他の若い人にもそのような態度をしていました。その方は五十代、六十代になるにつれて発言力も影響力は増しました。それはその人を支えようとする人がいるからです。
年長者の生き残り方、それは若い人を大事にすることだと思っています。それは三十代から始まり、四十代にはハッキリとした行動で表せなければなりません。五十代ではもう遅い。
■ [大事なこと]資源
日本における最大の未開拓の資源、それは日本海に眠るメタンハイドレートではありません。それは元気な高齢者です。その方々が死ぬ前日まで働いてもらって税金を払ってもらうのです。そんなこと前面に出してくれる政党がいたら私はそこに投票するのに。
■ [大事なこと]教師も
私は子どもも一人も見捨てたくないと願っています。それは教師に対しても同じです。
そもそも、教師は約100万人います。一つの職業としては最もありふれた職業なのです。その人達にプロ野球選手並みの特殊能力を求めるのは無理がある。だから私が求めるのは3つだけ、子ども・保護者の悪口を言わない、人と繋がる、出来ることをする、だけです(http://goo.gl/5YLUW)。
もちろんノウハウは必要でしょう。でも、それが多くあったらアップアップになります。例えば、学年別、教科別のノウハウなんて覚えきれるわけありません。だから、『学び合い』に関しては『学び合い』ステップアップの1冊にまとめました。私は『学び合い』は考え方であることを強調します。でも、それが分からない人がいたとしても、残念だな~っと思いますが、しょうがないな~っと思います。そもそも考え方のレベルで分かる人は全員ではありません。ま、2割程度の教師が理解していただければ十分だと思っているのです。そして6割程度の人が『学び合い』ステップアップに書いてある程度のことが出来れば、2+6=8割の人が『学び合い』をそれなりに出来ます。2割の人が『学び合い』に大反対であっても子どもは救われると思っています。そもそも反対者がいないと言うことは不健全です。
ちなみに、今、一斉指導のノウハウをまとめて本にしているところです。次の春に出版予定です。これまた1冊にまとめられます。
世間は教師に「努力の物量作戦」(水落氏の名言)を求めています。残念ながら教師の中にも努力の物量作戦を求めている人がいます。が、その人が出来たとしても、誰もが出来るわけではありません。世の中には「俺も苦労したからお前も苦労しろ」という人がいますが、「俺は苦労したから、お前は苦労させないよ」という人もいます。それなりの年齢、それなりの発言力のある教師は後者であるべきだと思うのです。
それが老後の自分を守る術です。
■ [大事なこと]第一優先
『学び合い』では「一人も見捨てない」ということが第一優先です。もちろん、子どもを見捨てて良い、と思っている教師は殆どいないでしょう。でも、優先順序が一番か否かで分かれるように思います。
多くの教師も、そして私も知っています。教科で学べる深いレベルを全ての子どもが学べるわけではないことを。例えば、波動を時間を位置を三角関数で表すことを理解できる子どもはあまりいないと思います。空間を集合として理解したり、演算を群や環で理解し、すっきりしたりする人なんて本当に希だと思います。方丈記ならまだしも、現在の風俗習慣とかけはなれた源氏物語に共感できる人はそれほどいないと思います。
これは小学校レベルでも同じです。例えば、小学校算数の教科書は、まず考え方があり、計算があり、応用問題が続くという構成です。しかし、あれで分かる子は希です。あれで分かる子は、空間を集合として理解したり、演算を群や環で理解し、すっきりしたりする人、つまり数学が大好きな人なんです。つまり教科書を作っている人たちだけです。
数学は定義があり、そこから演繹します。しかし、多くの人はそういう理解をしているわけではありません。大抵は帰納的に理解しています。算数の場合だと、考え方は取り合え宇あやふやのままで計算の仕方を覚え、計算が出来るようになります。その後に、応用問題をします。そんなことをしているうちに、なんとなく考え方が分かるようになります。そして、多くの子どもは、考え方は最後まで、なんとなく、のレベルだと思います。思い出して下さい。マイナス×マイナスが何故プラスなのでしょうか?答えられる人は少ないですよね。1たす1は何故2なのでしょうか、それを厳密に答えるにはペアノの公理が必要ですが、答えられる人は少ないですよね。そして、それに関して違和感を感じなかった。何故かと言えば、なんとなくのレベルでとどまっているからです。
だから、それを子どもに求めたら無理があります。
しかし、教え方によってはそれが分かると思っている教師がいます。しかし、それは無理です。そして、分かるわけではないが、授業ではそれを目指すべきだと思っている教師がいます。それは何故かと言えば、分からない子どもがどれほど苦しんでいるかが分かっていないからです。しかし、それはしょうがありません。私を含めて教師となるような人は、分かったから大学まで行けて、教師になった人なのですから。
もちろん教師となった人であっても、不得意な科目で苦しんだ経験はあるでしょう。私も英語や漢文で壊滅的に苦しみました。しかし、その一方で得意な科目があったから、そして不得意ではない科目が大部分だったから教師になれたと思います。そのため、不得意な科目が大部分で、壊滅的な科目が少なくない人の気持ちや状態が分からないのです。経験が無いので想像できないのは当然でしょう。
どういう状態でしょうか?悉皆研修で大学の教師のちんぷんかんぷんの講義を1時間半聴く状態を思い出して下さい。それが6時間続く状態を想像して下さい。それが週5日間続く状態を想像して下さい。それが小中高の12年間続く状態を想像して下さい。それだけではありません。定期的にそれがテストされるのです。それによって教室で序列がつけられる状態を想像して下さい。地獄だと思います。
一人も見捨てたくない、これが第一優先にすべき理由は、ここにあります。幸いなことに、一人も見捨てたくない、を第一優先にすれば、教科の深みも達成する可能性が高まります。しかし、教科の深みを第一優先にすれば、絶対に少なからざる子どもを見捨ててしまうことになります。