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2012-11-25

[]無駄な時間を削る 10:35 無駄な時間を削る - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 無駄な時間を削る - 西川純のメモ 無駄な時間を削る - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私が西川ゼミ全体に語る時間というのは年間を通して15分以下だと思います。その代わりに個人ゼミ(ただし数人いっしょにやります)を大事にします。

 では、何故、従来指導型でやられている全体に対する一斉指導の部分が少ないのか、それには理由はあります。ありとあらゆることを明文化しているからです。

 例えば、私のゼミ運営の基本方針は『学び合い』で運営しています。とにかくゼミ生に任せます。ただし、一つ求めているのは、独り決めしないでゼミで話し合って決めることを求めています。そうすれば私が考えるよりは良いものが出来ます。そして報告、連絡は不要であると明言します。しかし、リスク管理上、例外規定はあります。そのあたりを全て明文化しています。http://goo.gl/v5xXc

 『学び合い』の学術研究、実践研究の詳細は学術論文や書籍に表しています。そしてそれらの研究を進めるためのノウハウの殆どは実証的教育研究の技法(大学教育出版)に書いてあります。そしてそれらに書き切れないこと、つまり最新事情や秘伝などはゼミ生集団の中に文化として存在します。

 つまり、定型的なことは全て明文化し、そうできないことは集団の文化にするのです。そうすれば私がごちゃごちゃと全体に言うことはありません。私がやるべきことは、そこにいて見ていることです。さらに言えば、私がその事に注目していると言うことが集団が分かっていれば、私がいることさえ必要ありません。だから、私は全体ゼミには殆どいません。学会発表の練習会にもいません。とにかく、ありとあらゆる場面で私はいません。そしてゼミ生もそれを当然だと思っています。そして、超ハイレベルのアウトプットを出しています。自慢のゼミ生です。

 小中高の先生の中には「そんなの大学だから出来ること」と思う人もいるかも知れません。しかし、そうではありません。受験勉強を思い起こして下さい。「志望校に入る」ということさえ納得させれば、あとは教師がごちゃごちゃする必要はありません。いや、そうすれば邪魔になります。では、その時、教師がやるべきことは何でしょうか?第一に、志望校に入ることがどのような意味があるかを語ることです。第二に、今の状態がそれに値する行動かです。しかし、そのことも子ども達の中に内在化すれば、それすらも不要です。そこにいれば良い、いや、いる必要性もありません。もちろん、それが出来る子どもがいますが、そうでない子どももいます。しかし、集団の文化にすれば大丈夫です。

追伸 ただし、私の気の緩みからゼミの質が落ちたなと言うことがあれば、まず謝り、1時間程度はじっくり語ります。3、4年に一度あります。

[]良い授業 07:45 良い授業 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 良い授業 - 西川純のメモ 良い授業 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 多くの教師のイメージする良い授業とは、「全員が楽しく、大多数が分かって、一部の子どもが深い教科理解に至る」というものだと思います。それだったら、今まで通りの授業でも、力のある例外的な教師だったら出来るかも知れません。

 しかし、私のイメージする良い授業とは、「全員が楽しく、全員が分かる」授業です。しかし、多くの教師はそれは無理だと思っています。事実、今まで通りの授業では絶対に不可能です。これは単純計算で証明できます。つまり、一人一人の疑問は違うのですから、一人一人に合った指導が必要です。であれば1校時を人数分で割れば1分数十秒です。そんなので分からせられるわけありません。もし、「全員が楽しく、全員が分かる」を無理である授業をすることは教師の責任放棄です。

 では『学び合い』だと「全員が楽しく、全員が分かる」のか?と問われれば、それが常に成り立つとは言えないことは確かです。しかし、その可能性はあることは確かです。何故なら、クラスの子ども全員が教師であり学習者であるならば、今までよりも可能性が高いことは確かです。つまり、責任を放棄していません。

 もし、『学び合い』より可能性が高いものがあるならば、私は直ぐに『学び合い』を捨てます。というよりも、今の『学び合い』はそうやって何度も脱皮して成長したものなのですから。

[]責任 07:17 責任 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 責任 - 西川純のメモ 責任 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 『学び合い』に対する超古典的な誤解に、「責任放棄」であるというものがあります。改めて書きます。goo.gl/xNDKG、goo.gl/n5p4y

 医者の仕事は何でしょうか?聴診器で心音を聞くことでしょうか?注射をすることでしょうか?薬を処方することでしょうか?違います。医者の仕事は病気を治すことです。聴診器も注射も薬も、病気を治すという仕事のために、必要なときに選択される手段にすぎません。

 今から7年弱前に院生さんと一緒に、地元小学校に行きました。目的は、その学校で『学び合い』を取り入れる際、疑問に思っていることを実践者の人から聞きたいという希望を叶えるためです。従って、イントロダクションの部分は私が語りましたが、後はお二人にお任せです。

 帰りの車の中で、「どんな質問が応えるのに難しかった?」と聞きました。典型的な疑問が多かったようですが、印象深い質問が二つありました。第一は、「教えるのが教師の仕事だから、それをやるなと言われても納得できない」です。第二は、「教材研究が教師の専門性であるので、それが無かったら、教師の専門性は何だろうか?」です。色々な応え方がありますが、聞かれた前後の意味を勘案して、それに対する「私だったら」の応えをメモります。

 第一の質問に対しては、以下の通りです。

 教えるのが教師の仕事ではありません。教師の仕事は人格の完成です(教育基本法の第1条にあります)。さて、人格の完成とは何でしょう?それは、人と関わりながら教材を学び、それを分かり、心を成長させ、それによって人と関わり合いながら社会の一員となれる人を育てることです。我々は、「分かり」、「心を成長させ」、「社会の一員となる」は不分離と考えています。話を簡単にするために、教師の仕事は「分からせる」ことだとしましょう。これは、多くの教師が納得してくれるでしょう。

 であれば、「先生が教えることが、分からせるに最も優れたものなら、教えてください」と言います。少なくとも、「先生が教えることが、分からせることに最も優れたことが多いなら、どうぞ、教えてください」と言います。同時に、「でも、その根拠を教えてください?」と言うでしょう。考えてください。子どもは一人一人多様です。どんな教師でも、クラスには「出来る子」と「出来ない子」がいることは知っています。また、「図を書いて理解するタイプ」、「言葉で理解するタイプ」がいるでしょう。「帰納的に考えるタイプ」、「演繹的に考えるタイプ」がいるでしょう。その他、様々なタイプの子がいます。そのような子どもがいっぺんに分かるような説明ってあると思います?あり得ません!

 もし、それぞれの子どもにとって、それぞれ最善の説明があることが理解してもらったとしましょう。クラスの子どもたち、一人一人のタイプがどんなタイプか把握している教師なんているのでしょうか?また、それぞれに対応した最善の説明の仕方を考えられる教師なんているのでしょうか?1万歩(百歩ではありません)譲って、それらを出来るとして、どうやって数十人の子どもに語るのでしょうか?そんなの不可能です。再度、問います。「先生が教えることが、分からせるに最も優れたものなら、教えてください」と言います。少なくとも、「先生が教えることが、分からせることに最も優れたことが多いなら、どうぞ、教えてください」と言います。同時に、「でも、その根拠を教えてください?」と言うでしょう。教師の仕事は「教えること」ではなく、「分からせること」なんです。

 教材研究も同じです。「先生が教材研究をすることが、分からせるに最も優れたものなら、教材研究してください」と言うでしょう。そして、「その根拠を教えてください?」と言うでしょう。何故、教師は深い教材研究が必要なんでしょう。大抵の教師の考える教材研究の効能は、一人一人の子どもの質問に対して、即妙の反応が出来るため、と考えています。しかし、それがナンセンスなのは上記の通りです。

 我々は目標の設定が大事だと考えています。であるので、教材研究は目標設定に大事だ、と言えるかもしれません。でも、そんなことしなければ目標設定が出来ないとしたら、1年間の授業の中で、何時間分、それの恩恵に浴せるのでしょうか?そして、それ以外の授業は、どうやってやるのでしょうか? さらに言えば、認知心理学によれば教材研究をしっかりすると、分からない子どもの気持ちと理解が理解出来なくなります。

 教師の仕事は、「全ての子ども」に「1年中」分からせることが仕事です。それが「教えること」、「深い教材研究」で出来るのでしたら、どうぞ。私には出来ません。

 教えることに熱意を持ち、教材研究に時間を費やす方は、既に素晴らしい授業をされているのでしょう。でも、そのような力のある先生ならば、子ども達とともに授業を作り上げたなら、ものすごいことが出来るんです。

[]責任放棄 07:17 責任放棄 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 責任放棄 - 西川純のメモ 責任放棄 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 教育基本法第1条には「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」とあります。ということは、学校教育は1分1秒の例外もなく、人格の完成を目指したものであるべきです。

 従って「2桁の足し算」を教えるときも、1分1秒の例外もなくそれがどのように人格の完成に関わるのかを自覚し説明できなければなりません。それが出来ないならば責任放棄なのです。

 教師とは「2桁の足し算」を教える人ではなく、「人の道」を教える人なのです。

 しかし、多くの人はなんとなく「いっぱい学んで、いっぱい出来れば」は人格の完成だと思っているのではないでしょうか?しかし、その時の人格の完成とは何でしょう?それを明確に言えなければ責任の放棄です。

 百歩譲って、なんとなく「いっぱい学んで、いっぱい出来る」レベルだとしましょう。だったら、国民から負託されていることは、「学習指導要領で示されている内容を国民全員に学ばせる」ことです。例外なく全員です。一人も見捨てず、です。それをあきらめたら、それは責任放棄です。