■ [大事なこと]違い
『学び合い』と他の決定的な違いは、『学び合い』は会社経営にも適用されるし、理想社会にも適用されます。私自身、学校をコアとして理想社会が形成させたいと願っているし、事実、それを一歩一歩実現しています。例えば、異学年の『学び合い』を実践し、その中に保護者集団、地域社会をとりこみ地域コミュニティを再生しようとしています。
しかし、『学び合い』以外を社会に適用すれば、ザミャーチン『われら』、ハクスリー『すばらしい新世界』、オーウェル『1984年』のような社会になる。せいぜい慈愛あふれる啓蒙君主の国になるでしょう。『学び合い』における教師は、専制君主ではなく、明確な明文法に基づいて法を執行する公務員です。子ども達は教師に従うのではなく、教師の上位にある「一人も見捨てない」という法に従います。
教育基本法第1条には、教育は民主的な国家の形成者を育成しなければならないと書かれています。しかし、それが専制国家のように行われている。何故、その矛盾に気づかないのでしょうか?『われら』における恩人、『すばらしい新世界』における総統、『1984年』におけるビッグ・ブラザー、いずれも自分たちは良いことをしていると信じていると思います。ただ市民を自分で考えられる存在とは考えず、自由に考えさせれば混沌が生じると思っているのです。そして、その考え方が、現在の授業の根底にあります。
おそらく授業と社会は違う、と言う方もいるでしょう。でも、そこが『学び合い』と他の決定的な違いだと思うのです。つまり、考え方と授業方法の違いです。『学び合い』も授業方法のレベルで理解していると、社会に適用することは出来ません。