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2013-02-25

[]『学び合い』ジャンプアップ 19:41 『学び合い』ジャンプアップ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 『学び合い』ジャンプアップ - 西川純のメモ 『学び合い』ジャンプアップ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 『学び合い』だけが、定常的な異学年を実現できます。何故なら、毎日の教科学習の時間を使って、教科学習をそのままの課題で異学年が出来るからです。そして、それによって教師の『学び合い』が出来ます。とにかく、やってみれば、その効果にはビックリします。

 幸い、『学び合い』を実践されている方は多くなりました。しかし、その多くは異学年・合同『学び合い』のすごさを知りません。それを安全に確実に、そして政治的にも安全に確実に、実践するノウハウを書きました。

 『学び合い』ジャンプアップ、予約開始です。http://goo.gl/r56qk

[]お客様 18:44 お客様 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - お客様 - 西川純のメモ お客様 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 東京から教育関係者と大学生が『学び合い』の参観においでになりました。子ども達にもよい刺激になったと思います。

[]西川ゼミ 07:13 西川ゼミ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 西川ゼミ - 西川純のメモ 西川ゼミ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 西川ゼミは徹頭徹尾、『学び合い』のセオリーで動いています。

 ゼミ生集団を信じているので、ありとあらゆることを任せています。大学から教務上の手続きの通知が来たならば、ほぼ、何も読まずにゼミメーリングに流します。

 ありがちな輪読なんかはしません。効率悪いから。読むべき本は一人一人違うし、分からなければ人に相談すれば良い。ましてや、そこに教師がいる必要はありません。教師が言うようなことを書いてある本を知っている人が集団の中にいれば良いだけです。

 ゼミで集まることはしますが、それは意思決定の場面です。そして、そこに教員がいる必要性はありません。教員が何を考えているか分かっているゼミ集団であれば、いちいちチェックする必要はありません。

 ということで、一般の大学教員がゼミ生指導でやっていることは殆どしません。

 その一方で、多くの大学教員があまりやっていないことをやっています。

 第一に、ゼミのルールを成文化しています。ゼミ生に丸投げではダメです。リスク管理上、任せていることと、任せていないことの線引きは明確にしなければなりません。

 第二に、個人面談を重視しています。ゼミに入りたての学部3年、大学院1年の学生は週に1度、学部4年、大学院2年は2週間に1度、個人面談をします。ただし、個人面談と言っても、私の部屋で二人きりではやりません。大抵は4、5人が同席し、次々に面談をします。そうすれば、一度、話せば、同時に何人もの面談が出来るからです。大抵同じことをゼミ生は聞きます。

 そこでは研究や学校支援のこと、はては受験や恋愛のこと、様々なことを相談されます。その度に、『学び合い』のセオリー通りに問題を分析し、解決策を例示します。これによって、『学び合い』がお題目ではなく、ありとあらゆる場面に適用できる強力なセオリーであることを実感させます。

 第三に、自分たちが成した成果を実感させます。西川ゼミには日本中からお客様が来ます。その方々は教諭、校長、教育長、塾経営者、予備校経営者のような教育関係者ばかりではなく、議員、企業の人もいます。そのような方々とふれあうことによって、自分たちの成していることが、日本中の子ども達の人生に関わっていることを実感させます。そして、自分たちが今、日本を変えているんだということを確信させます。

 第四に、政治をします。ゼミ生が思いもつかないような予算を獲得し、ゼミ生が思いもつかないような人事をします。管理職は部下の延長上にあるのではありません。部下が思いもつかないこと、部下が出来ないことをするのが管理職の勤めです。でも、それを出来るためには部下が出来るようなことは全て部下がこなしてくれないと出来るわけありません。我がゼミはそれが成り立っています。

 以上の結果として、我がゼミは膨大な学術論文、実践本、学校支援、教員研修・教員養成の実績を上げています。そのレベルは圧倒的であると自負しています。

 と、ここまで書くと、上記は大学だから出来る、と思う人がいるかも知れません。でも、そう思っている限りは、何も出来ません。実は、上記は小学校でも出来ることです。

 第一に、学級もしくは担当クラスのルールを成文化することは出来るはずです。「みんな輝け、楽しいクラス」レベルの学級目標を教室の前に貼っているクラスは一般的です。しかし、それによってありとあらゆることを、教師に確認せずに出来るようなルールを成文化しているクラスに出会ったことはありません。でも、出来るはずです。

 第二に、個人面談も出来るはずです。毎日、毎日の課題を与えるレベルでは無理でしょう。しかし、単元レベルで課題を与え、任せたならば、一人一人の子どもが各人時間調整が可能です。だから、月に1度ぐらいのペースで、5、6人を教室の後ろに集め、個人面談をするのです。内容は雑多でしょう。そこでは、『学び合い』の学校観に基づき、それを分析するのです。

 第三に、授業参観を積極的にするのです。そして、自分たちの学びを自分たちでまとめ、それをブログ等で情報発信するのです。

 第四に、政治をしましょう。お金を助成してくれる団体はあります。5つ応募すれば一つぐらいはあたります。その予算を子ども達に任せるのです。また、教育長レベルと繋がれるような自分になるのです。(どうしたらいいかは7つのルールに書いてあります)

 ほら、出来るでしょ。このような説明した後にゼミ生に「出来ない理由を述べよ」と問います。ゼミ生は「ありません」と応えるしかありません。そして、「出来なかったら、その理由は?」と問えば、「やらなかったから」と応えるしかありません。

[]学校観 06:04 学校観 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 学校観 - 西川純のメモ 学校観 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 子ども観を乗り越えたならば、次は学校観を乗り越えなければなりません。これを乗り越えないと、課題設定でぶれたり、課題が出来ない子どもにオロオロしたりしてしまいます。

 最初に理解して欲しいのは、教師がどんなに考えても、全員にフィットする課題なんてあり得ないと言うことです。例えば、2桁の足し算、大化の改新、方丈記、どんな単元でも結構です、その日の課題を思い浮かべて下さい。そして、クラスの子どもの顔を浮かべて下さい。どう考えても、一人一人、与えた課題を別な課題に解釈しているはずです。成績で輪切りにしているはずの高校ですら、入学後、あっという間に能力の多様性が発生します。

 だから、「良い課題は何か?」と悩んだならば、「誰にとって?」と考えて下さい。そして、先のように一人一人の顔を思い浮かべたならば、「そんなのあるわけ無い」ということが分かります。

 では、我々が課題を考える際にどのように考えたら良いか?

 まず長期スパンで課題を考えるべきです。それは教育基本法第1条の人格の完成です。しかし、人格の完成といっても分かったようで、分からないですよね。それで今までの教育は済ませていました。だから教育基本法第1条をお題目と考え、日々の課題に繋げていなかったのです。

 『学び合い』の学校観では、「多様な人と折り合いをつけて自らの課題を解決すること」が人格の完成だとしています。短い言葉ですが、大事です。「多様な人」というのは暴力行為を繰り返す人、暴言で人を傷つける人、知的な能力に障害のある人、とにかく、みんななのです。折り合いを付ける、とは、仲良くなると言うことではないと言うことです。腹の中で嫌いでも良いのです。大人のつきあいを出来るということです。自らの課題を解決するとは、多様な人と折り合いを付けるのは、道徳的なものではなく、実利的なものであるということです。

 この『学び合い』の学校観を理解できれば、数学の陶冶価値を「抽象的概念の理解」等とは捉えずに、「能力差が激しい課題を折り合いを付けて自らの課題を解決することを学ぶ」と捉えることが出来ます。もちろん、多くの子どもは「抽象的概念の理解」を結果的に解決することが出来るでしょう。でも、それは数学をツールとして使っているからとしての結果です。大事なのは「能力差が激しい課題を折り合いを付けて自らの課題を解決することを学ぶ」ということです。

 何故、このようなレベルで課題を考えるべきなのでしょうか?それは、『学び合い』の集団の動かす子どもが、それを基に自分自身の課題を組み立てることが出来るからです。自分自身の課題、つまり、自分自身の利害に一致させることが出来るので、『学び合い』を推進する気になるのです。結果として、それに準じる子ども集団も、それなりに自分自身の利害に一致させることが出来ます。

 バス旅行の際、手元の本を読み出すと酔ってしまいます。バスの揺れに絶えず、視線を合わせなければならないからです。その場合は、遠くを見るべきです。そうすれば、バスの揺れは誤差になってしまいます。

 教師の思い込みで、課題に凝り始めると、自分自身の利害に一致させることが困難になります。よく使う例ですが、お米はチャーハンにもおかゆにも出来ます。しかし、一度、チャーハンにしたらお粥にすることは出来ないのです。だから、日々の課題はとてつもなくシンプルなもので良いのです。基本的に学習指導要領の原文で良いのです。

 ちなみに、学習指導要領のない大学・大学院である我がゼミの目標は、「自分の心に響き、多くの人の心に響く教育研究を通して、自らを高め、一人も見捨てない教育・社会を実現する」です。この目標の下、一人一人が自らの課題を設定しています。

 教師も子どもも、遠くを見て、それを基に近くを見ましょう。『学び合い』の学校観は短いが、深い意味を持っています。けっしてお題目ではありません。

追伸 つまり、お題目のように見えて、お題目でないことを説明でき、子ども達にそれを実感させる様々な場を提供できるかどうかが教師の職能ということになります。