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2013-03-06

[]『学び合い』の免許皆伝 10:01 『学び合い』の免許皆伝 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 『学び合い』の免許皆伝 - 西川純のメモ 『学び合い』の免許皆伝 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私のところに授業のビデオを送ってアドバイスを求められることがあります。少なくとも『学び合い』を初めて1年ぐらいの段階だったら、私でもアドバイス出来ます。でも、本当に『学び合い』が分かったかということは、誰かに見てもらう必要はありません。

 自分でも簡単に判断出来る方法があります。

 それは、「自分の担当しているクラスで重大な問題が起こったとき、子ども「たち」に率直に状況を語り、その解決を求められるか?」です。これが出来るとしたら、学校観と子ども観が腑に落ちているということです。

追伸 偉そうに書いている私ですら、辛いときがあります。

[]考えが分かる道 07:13 考えが分かる道 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 考えが分かる道 - 西川純のメモ 考えが分かる道 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 昨日、ある人から『学び合い』をアプリみたいに使っている人が多いよね、と言われました。私は、それはしょうがないことで、そのうち分かる、と応えました。

 『学び合い』は考え方、と何が何だか分かりません。使ってみて、分かるしかありません。現在、『学び合い』はステップアップやスタートブック、そして、もうすぐ出るジャンプアップという本によって、従来の一斉指導のOSでも走るアプリ化しました。つまり、本当に学校観や子ども観、その結果としての授業観が腑に落ちる前でも、そこそこの結果は出るようにテクニックを整備しました。

 しかし、人間という生もの相手の仕事です。どうしてもテクニックだけでは乗り越えられないときがいつか来ます。その時、それを乗り越えるための手がかりは、学校観、子ども観にあります。

 例えば、学校観は「多様な人と折り合いをつけて自らの課題を解決すること」というとてつもなく簡単な言葉です。でも、「多様」とはとにかく全員なのです。どんな人でもです。これが腑に落ちていないと、重い知的な障害を持つ子どもや、暴力的な行動をする情緒障害の子どもがいると、『学び合い』は無理と思ってしまいます。確かに大変でしょう。でも、一度、「あの子」は無理、と思ってしまえば際限がありません。「一人を見捨てると、二人目を見捨て、三人目を見捨て・・・」となります。だから、「多様な人」とはとにかく全員なのです。

 次に「折り合い」です。『学び合い』は仲良しになることを求めていません。濃密な関係を持つことを求めてはいません。あくまでも、「0」になることはダメだと言うことです。極論すれば「0.0001」でもOKなのです。さらに言えば、その子と自分が繋がらなくても良いのです。自分と繋がれるだれかとその子が繋がっていれば良いのです。これが分からないと、先に述べた「多様」ということは無理と思ってしまいます。「おりあい」ということを上記のように理解すれば、どんな子どもであっても無理ではありません。

 では、どの程度の折り合いを付けるのでしょうか?それが「自らの課題を解決する」なのです。『学び合い』は徳目ではありません。エゴイズムを実現する最高の戦略なのです。自分が得になる程度に「1000」でもいいですし「0.0001」でもいいのです。ただ、「0」にすれば集団が崩れ、結果として自分の不利益が生じることを理解すべきなのです。

 例えば、「こんなやつ、裁判無しに死刑すべきだ」と思うことはあると思います。でも、例外的にせよ、裁判無しの死刑を一度認めれば、それがどんどん拡大解釈される可能性があります。結果として、それは自分の不利益になります。だから、「こんなやつ、裁判無しに死刑すべきだ」と思う場合も、十分な裁判は必要なのです。それと同じです。

 そして、以上のことを子どもに求めるならば、自分にもそれを課すべきです。何故なら、それが最高の戦略なのですから。我々大人は、様々な人と関わりながら仕事をしています。その時、自分が「多様な人と折り合いをつけて自らの課題を解決する」ことが出来なければならないのです。出来ないとしたならば、本当に学校観が最高の戦略だとは理解していないことを意味し、子どもにしっかり語れないと言うことを意味します。

 従来型では教師の方が子ども「集団」より有能だと考えています。可視化などの様々なテクニックは、その従来型のOSにフィットするアプリなのです。たしかに有効です。でも、それは子ども達(実は自分)の従来型の鎖を早く断ち切るためのテクニックに過ぎません。そんなの使わなくても、速やかに『学び合い』は実現できます。何故なら、従来型よりもあきらかに『学び合い』の方が自然ですから。でも、アプリがあると安心できるから提供しているのです。

 でも、さまざまなテクニックを用意しても、それで乗り切れない問題にぶち当たります。繰り返しますが、人相手の商売なのですから。しかし、従来型のOSに『学び合い』というアプリを乗せている人は、問題の解決を従来型の別なアプリによって解決しようとします。そして、解決できないと、どんどんアプリを付け足してしまうことになります。結果として『学び合い』が崩れます。結果として、『学び合い』に見た目がちょっと似た、従来型になってしまいます。

 では、どうするか。子ども達集団を信じなければ乗り越えられません。すなわち、自分一人が悩み、自分一人で解決策を考えるのではなく、率直に、現状の問題を語り、解決することを求めるという『学び合い』のゴールデンルールに従わなければなりません。子ども達、正確に言えば、集団をリードする2割の子どもが解決しようとするか、しないかを決めているのは、先に述べた学校観を教師がちゃんと理解し、語れるかということによります。

 私は全ての教師が、このレベルの理解をするべきだとは思いません。このレベルのことが分かる教師は2割で結構だと思います。8割の人が悩んだとき、2割の人が考え方に基づいて解決策を考え、8割の人はそれをアプリとして利用すれば良いと思っています。

想像して下さい。日本中の人が日本国憲法を熟読し、日本国憲法を議論し合う状況は望ましいでしょうか?おそらく、日本の民主主義が相当危うい状況で無い限りそのようなことは起こりません。

でも、2割は確実に必要なのです。だから、煙たがられても、何度でも、何度でも、考え方の重要性を様々な表現で語ります。