■ [大事なこと]残るもの
今の授業は明治時代の状況に合わせて成立したものです。
書籍が高く、コピーがなかった時代に合わせて、教師が板書し、子どもがそれを写すということが生まれました。ま、写経みたいなものです。今の時代だったら、教師が板書するようなことは事前に印刷し、配布します。そして子どもは無地のノートにまとめるのです。いやいや今の時代だったら、タブレット型パソコンにデータ転送して、学習内容をまとめるという形になるでしょう。
いやいや、教師自身が板書内容を考える必要はありません。名人教師の板書を渡せば良いだけのことです。
授業だって同じです。昔はその場で、その人が授業をするしかなかった。でも、今は映像配信はいくらでも可能です。名人教師の授業を視聴すれば良いのです。だって、現状の授業は一方通行です。もちろん、対話している部分もありますが、その恩沢に浴せるのは数人に過ぎません。その他の子どもは、その対話を一方通行で聞いているのです。だったら、名人教師が子どもと対話している授業を聞けば良い。
さて、上記だったら、教師はいるでしょうか?
もし、教師が授業して、板書して、発問する存在であるならば、不必要です。
でも、教師は必要です。では、上記が成り立った後でも残る教師の存在意義は何でしょうか?
『学び合い』は明確にそれを応えることが出来ます。そして、全ての教師がそれが出来ると思っています。
■ [大事なこと]わけ
『学び合い』が有効であるという理由は分かった、でも、じゃあ一斉指導が主流なのは何故?という当然の疑問があります。現在、主流で、今後、衰退するには歴史的な背景があります。以下の7ページ以降をお読み下さい。http://goo.gl/KRwdd