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2013-04-14

[]英語の陶冶価値 08:56 英語の陶冶価値 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 英語の陶冶価値 - 西川純のメモ 英語の陶冶価値 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 ネットサーフィンしていたら面白い記事を見つけました(http://goo.gl/eK9dB)。寺沢さんという若い研究者の論文です。「『日本人の9割に英語はいらない』は本当か? ―仕事における英語の必要性の計量分析」というタイトルです。面白そうでしょ!『日本人の9割に英語はいらない』という本自体は私も読みました。英会話は殆ど出来ない私が『日本人の9割に英語はいらない』と言っても負け犬の遠吠えにしかなりません。しかし英会話で暮らした人がいうのですから、小気味が良かった。

 その人の論文を検証するというのですから、直ぐ飛びつい寺沢さんからゲラを頂きました。読んでみましたが、ま~これが読みやすい。学術論文ですから、一部はゆっくりと読まなければなりません。しかし、一般の人だったら、それをざっと読み飛ばしても読めます。よくこんな面白い文章を学術論文として載せたなと、関東甲信越英語教育学会に敬意を表します。

 結論からいえば、『日本人の9割に英語はいらない』の論理はやや荒いが、実態としては1割も必要とする人はいないという結論です。そして、現在、日本が進めている国民全てが英語を使えるような方針は本当に正しいのか?と書いています。

 日本の某企業では社内の会話を全部英語にしました。それを拡大するようなものです。でも本当にそれが必要でしょうか?

 プラトン研究の第一人者である田中美知太郎が、ある人からプラトンを学ぶためにはギリシャ語を学ぶべきか?と問われました。ギリシャ語、それも古いギリシャ語まで堪能な田中はそれを勧めませんでした。彼は、一つの言葉を学ぶには一生かかることだから、それ自体が主目的でない限り、それはすべきではないと言ったのです。当然のことです。人間に与えられた時間も能力も有限です。あることに費やせば、その他のものがおろそかになります。全ての人が英会話が堪能な人になるためには、商品開発がおろそかになります。もちろん、そもそも商品開発はせずに、他国から商品を扱うだけの会社だったら大丈夫でしょう。でも、その商品を日本で売りさばくとしたら、相手は日本人です。だったら、英語に堪能な人より、津軽弁や茨城弁に堪能な人の方が良いのかも知れません。

 そもそも、英会話が盛んな国は以下のような国です。

1) もともと文字の言葉を持たないか、また、部族語との言語が乱立しているかで、英語以外の統一の言語を持てなかった国。

2) 国内の学術・技術が未成熟で、海外の文献しか学べない国。

3) 国内経済が脆弱で、国民の殆どが海外との取引を直接行わなければならない国。具体的に言えば、外国人相手に路上でものを売る人があふれているような国です。

 幸い、現在の日本はいずれでもないと思います。

 実は、私は以前、保護者に学校で学んだことが役に立つかを調査したことがあります。それによれば、中学校英語に対して7割の保護者が、大人になってからの家庭生活、社会生活に関係すると回答しています。高校英語は5割の保護者が、大人になってからの家庭生活、社会生活に関係すると回答しています。かなり高い評価です。しかし、先の寺沢は仕事で英会話が重要である人を推計しているのに対して、私の調査ではかなり敷居を下げていることに由来します。だから、私の調査の場合、中学校英語では3割、高校英語では5割の人が英語教育の意味を見いだしていないということを意味しているのです。そして、そのような結果に対して、8割以上の英語教師がその通りだと考えているのです。つまり、多くの教師は「これからの国際社会では英語は・・・」と言ったとしても、本気で信じているわけではないのです。

 現状の英語教育は、将来、英語を本当に使う人にも、それほど使わない人にも不幸だと思うのです。

 本当に英語を使うならば、徹底的に聞かせるべきだと思います。徹底的に聞かせることによって、話せるようになる。徹底的に読ませることによって、書けるようになる。我々は母語である日本語をそのように学びました。母語のように扱うならば、そのようにすべきです。

 理学部で読む本は英語が中心でした。生物学の良い本は殆ど英語でしたから。研究を始めれば、それらは英語で書かれています。しかし、その英語は非常に単純でした。単語こそ専門ですが、文法は中学校英語でした。

 私は大学、大学院、そして研究者になってからも、私が読んだ本の中で「仮定法過去完了」なんて一度もお目にかかったことはありません。高校時代、なんであんなこと勉強したのでしょうか・・・・・。もしかしたら、文学作品を扱う仕事に就く人には関係あるのかも知れないですけど、それに付き合わされるのは迷惑です。さらに、英語は一生涯使わない人に英語教育を学ぶ意味はどんな意味があるでしょうか?

英語教育を専門としている方にお願いしたい。「これからの国際社会では英語は・・・」という殆ど誰も信じていない、そしてとうの英語教師も信じていないことを子どもに言うのはやめましょう。少なくとも、仮に国際借家委で活躍する人も、「仮定法過去完了」は不必要だと思います。そして、そうではないことを前提として英語教育の価値は何かを考えて欲しいと願います。

私は英語教育は専門ではありません。しかし、以下のような実践をしたことがあります。

ある小学校の総合学習で、その地域に海外からもお客さんが来るように、その地域のことを英語でHPにまとめ発信することを求めました。もちろん、『学び合い』でやりました。子ども達は、ゴチャゴチャと自主的に進めました。教師が教えるより、数段素晴らしい成果を遙かに早い速度で進めます。これは『学び合い』のセオリーから言えば、当然の結果です。

非常に面白かったのは、英文を作成する際、その原文である日本語を吟味しなければならないのです。というのは、英文を作成する際、翻訳サイトを利用します。例えば、日本文を翻訳サイトで英訳します。別な翻訳サイトで英訳したりします。また、その英訳を翻訳サイトで日本語訳をして原文と比較します。当然、変な英語や日本語がでます。そこで原文(つまり日本語)を吟味し直すのです。子ども達の会話を聞くと、日本語の吟味の会話が多いのです。

 英語の専門家だったら、どんな英語の陶冶価値を見いだすのでしょうか?

西川純、新井郁男、熊谷光一、田部俊充、松本修(1997.8):生涯教育から見た各科教育、学校教育研究、12、日本学校教育学会、136-147

西川純、新井郁男、熊谷光一、田部俊充、松本修(1998.7):生涯教育から見た各科教育(その2)、学校教育研究、13、日本学校教育学会