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2013-04-20

[]体罰 21:23 体罰 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 体罰 - 西川純のメモ 体罰 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日、体罰無しで成果を上げた高校サッカーで成果を上げた教師の話が放映されました。あれを見た同志は、私の言いたい事分かるでしょ。その先生に言いたい事、それって教科指導も同じですよ。ということ。同志の方に言いたい事。個別の繋がりは大事です。その個別の繋がりを成り立たせるには、徹底的な『学び合い』をすべきです、ということです。(http://goo.gl/FDCj4

[]数学 09:44 数学 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 数学 - 西川純のメモ 数学 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 今、塾に行きたくないと言い張る息子のために「お父さん塾」をやっています。やりかたは、問題数の少ない基本的な問題集と、彼が読みやすいと選んだ参考書を与え、「やれ」です。それで、しばらくすると、大部分を解けるようになるから不思議です。ま、中学校の数学はその程度とも言えます。

 が、私が改めて中学校数学を教えていると、つまらないのです。まだ、小学校の方が数学の香りがした。中学校数学は完全に技能教科のように感じます。数学の専門の方すみません。

 私の専門は生物物理学であって、数学ではありません。しかし、全くの趣味として独学で学びました。高木貞治の解析学概論・代数学講義、松坂和夫の集合・位相入門、小針晛宏の確率・統計入門、齋藤雅彦の線形代数学入門は特に大好きだった。ラングの教科書は日本語より英語の方が分かりやすいと感じ不思議に思った記憶があります。

 数学を専門とする人にとっては入門書ですが、専門外の私が独学で学ぶとき、それは十分にエキサイティングでぞくぞくして読みました。「空間という言葉が一般と違った意味で使われている」、「計算するのではなく、計算可能であることを議論している」など驚きの連続です。最初はどうでも良いと思ったイプシロンデルタ論法が意味ある事である事を知った時、当たり前の事をしっかり基礎づける事の意味を学びました。

 いったい学校数学にどんな意味があるのだろうか、と思います。もちろん、『学び合い』からみたときの陶冶価値は分かっています。それは能力差を実感できる教科なのです。しかし、数学の内容としての価値はどこか分からなくなります。

 今の学校数学は算術レベルです。そんだったら計算機の使い方を教えた方が良いのではないかと思います。数学を学ぶのだったら、ゴチャゴチャやらずに数学教科書の名著を読ませた方が良いように思うのです。

 数学の専門の方だったら、どんな風に感じているのかな~っと、息子に問題集を解かせる脇にいて思っています。

[]難儀 07:43 難儀 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 難儀 - 西川純のメモ 難儀 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 今から三十年前に研究の世界に入ったとき、教科教育は数十人のデータを統計分析も無し、多い、少ないと言っていました。というより、実証的データで議論する文化すらもありません。数値データで議論する私を、フィロソフィーがないと揶揄されました。

 しかし、それに限界を感じ、アンケート調査ではなく頭の中の思考をモデル化する認知心理学を駆使した研究に移行しました。その頃になると、やっと実証的データで議論する研究が主流になり始めました。そして私は心理屋と揶揄されました。

 しかし、それに限界を感じ、『学び合い』に至りました。そのころになってやっと認知心理学等のさまざまな心理学理論を駆使する研究が一般になり始めました。そして私は「教師の責任放棄だ」、「日本の教育を破壊する」と罵詈雑言を浴びせかけられてきました。

 いま教室レベルの『学び合い』(つまり約5年以上前の研究成果)が世に認められてきました。私は数年以内にそれを広げたい。が、今、教室レベルの『学び合い』には私自身は興味は低下しています。

 本質的に子どもや教師の幸せを実現するには、学校レベルの『学び合い』が必要だし、地域コミュニティーの再生が必要です。が、多くの人は遠い先の事にしか見えないでしょう。私にはリアルに見えるのに。

 研究者には深く掘り下げる人と、それを広げる人がいます。そして、広げたものを享受した人がいます。私はずっと最初に鍬を入れる役回りでした。しかし、五十を過ぎてもそれが抜けられない。というか、それが大好きです。しかし、年を取ると周りの無理解に対して「なにくそ」というエネルギーが低下します。「もういいじゃないか。既に積み上げたものをいじくるだけで定年まで十分に持つよ」という声が聞こえます。が、それでは「一人も見捨てない教育・社会は生まれない。あともう一歩」という声も聞こえます。

 県庁所在にでもない町にある小さい大学の一人の教師の頭の中で、そんな大それた妄想が渦巻いています。

 昨日は休肝日なのに、夜中に声を出してうめいていた私を心配した家内に、「何しているか分からないけど、もうやめなさい」と朝一番で注意されて上記を書きました。難儀だな~。みんなが、「そうだよな~」と思っている事をやってれば夜中にうめく事ないのは確かです。

 ま、愚痴です。