■ [大事なこと]伝えられないこと
どんなに伝えても、何年も教えても、教えられないこと。それは「一人も見捨てない」ということへの拘り。
でも、分からない人の方が普通だと思います。私の方が病的です。映画は子どもが出る映画はだめです。というのは子どもが不幸になる部分があると耐えられないのです。絶対に見終わればいい映画と分かっているのですが、見られない映画が山ほどあります。でもその映画の紹介を見ただけで涙があふれてとまらなくなります(たとえばライフイスビュティフル)。テレビで「虐待」という言葉が出たとたんに、電源をオフにします。間違って知ってしまうと、それだけで1週間は寝付きが悪くなる。
その私はよりによって定時制高校に勤めてしまいました。知りたくもないリアルな現実をあとからあとから知ることになってしまいました。
もちろん自分の心の平静を保つために「みんなハッピー」という夢は教師になって早々に封印しました。でも、その負い目を補うために、エンターテーメント性の高い授業を追い求め、大学院で学んだ教材の知識を雨あられと与え、テレビドラマで出てくる教師を演じていました。でも、それでも救われない子どもがいて、いや、最後に崖から突き落とす自分がいて。だから弱い私は大学に避難したのです。本当に弱い私です。
幸い、『学び合い』に出会いました。地獄の苦しみの中から救われる子どもを数多く見ました。私のような教師が平静な日常を取り戻すことに手伝えたことを誇りに思います。だから、今は自分が魔法使いのように思えます。昔の私には考えもつかないことが分かり、多くの教師が悩んでいることに関して明確な指針を語ることができます。でも、それを信じてくれないと何も変わらない。
不遜ながら言います。いろいろなことが見えるのです。そして、どうしたら「まし」になることがはっきり見える。でも、それには「一人も見捨てたくない」という願いが必要なのです。それがあれば、いろいろな状況で踏ん張れる。幾人かを見捨ててもいいと思えば他のアプローチの方が良いように思えます。でも、そう思えば、多くの子どもが地獄の苦しみに陥る。でも、分かっても周りが分かってくれない。イエスの最後の言葉「わが神、わが神、どうして私をお見棄てになったのか」という気持ちが分かる。
なんで解決もできなものを見える能力と、それを苦しみに感じる感性を私に与えたのか。高校教師の最後に感じたと同じ苦しさを大学教師になって感じています。自然科学ならば証明は簡単ですが、教育は社会科学なのです。
今、これから逃れる方法は、今の段階で「一人も見捨てたくない」という冷静に考えれば病的な欲求を共感してもらえる人が必要なのです。でも、これはその人の内在するもので決まるものなのです。私のような病的な人が必要です。