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2013-06-23

[]年 21:18 年 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 年 - 西川純のメモ 年 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私の学部の指導教官は石坂昭三先生です。私の理系の部分を形作っていただいた方です。厳しい方でした。でも、学ぶことの多い方でした。お生まれは昭和三年、だから昭三です。

私が初めて石坂先生のご指導をいただいたのは学部二年の前半です。高木貞治の解析学概論の分からないことを聞いたのがはじめです。その頃は、神のような存在でした。今気づいたのは、当時の石坂先生は50歳です。今の私より3歳下です。ため息が出ます。今にして、当時の先生のお気持ちを感じます。

 今の学部学生が私の年の時、日本のどこかで、私は何を思っているかと。

追伸 ワープロの無い時代、1日かけて作ったレポートを、最初の数行の論理的な間違いを見つけられただけで、ゴミ箱に捨てられました。

 1日かけて出した実験結果、駄目なところを1時間弱、論理的に完膚なきまで指摘されます。それから実験です。結果として寝る時間がありません。5日間、完全徹夜を経験しました。みなさんそれだけ徹夜するとどうなるかご存じですか?指導教官の顔がちらつくので寝られません。一升の酒を飲んでもです。睡眠欲の代わりに食欲が増します。そして、足がむくんで靴に足が入れられません。でも、つらいというよりランナーズハイの状態です。でも、それによって理系的な思考を学ばせていただきました。

 我がゼミ生に、それは求めません。しかし、それだけのことをやれば、どれだけ伸びるかは知っています。

[]議論 19:40 議論 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 議論 - 西川純のメモ 議論 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は理系出身です。理系では議論は徹底的にやりますが、感情的になってはいけないと躾けられます。もちろん、人は感情の生物です、そう簡単に割り切れるわけではありません。しかし、感情的になることは恥ずかしいことだと言うことは身に染みついています。従って、議論しているのは議論している内容であって、その人の人格を議論することはありません。

 議論をハッキリするためには旗幟を明らかにしなければなりません。「天動説もあるけど、地動説もあるよね」という議論は、議論になりません。それは議論では無く、安易な合意に過ぎません。私は『学び合い』はあらゆる面で従来型より「まし」と思っています。しかし、そうでないと論理的に分かれば清くそれを受け入れます。そして、その可能性はあります。もともと反証不能の仮説は、仮説ですらありませんから。

 そのつもりでインターネットで発言したら、さまざまな方からコメントをいただきました。しかし、残念ながらその多くは感情論に陥ってしまうのです。論理的に進めようとして、一つ、一つ、議論の前提となる事実を確認して議論を進めようとするのですが、その場その場で論点が右に左にずれてしまう。それでも前提の確認をして、矛盾を確認すると感情的になります。まあ「お前のかーさん、でべそ」レベルの罵詈雑言になってしまう方が少なくない。

 ところがです。2年ほど前から、ぴたっとその手のコメントが無くなりました。ある意味、暖簾にうで押しです。残念だな~っと思ってゼミ生に愚痴ったら、「先生のことブロックしているんですよ」とのことです。そんなもんかな~・・と思っていました。

 ところがです。本日、議論できそうなコメントが来ました。コメントを書かれた方も大人の対応が出来そうな方でしたので、あえて噛みつきました。(本当に、久しぶりに)案の定、大人の対応のやりとりが出来ました。結局、内容云々より、表現方法の下品さが問題だとのご指摘であると分かりました。これは反省です。

 私が書いていること、その多くは学術データに基づいております。それ以外も実践的な経験に裏付けられています。そして、場面を教室場面から別な場面に置き換えれば、多くの方々の常識の範囲でその正当性は理解されるものです。と思っています。

 が、それが誤りであると分かれば私は今以上に成長できるのです。だから、そのレベルの議論を大人のルールの中でやりたいと希望しています。このままでは学校『学び合い』が広がって、その中の学校で地域コミュニティの再生の実践事例を学術データが出たら、『学び合い』は大凡「上がり」となることが目に見えています。それが誤りだと分かれば、また、ワクワクすることが出来ます。

[]学ぶ構え 17:52 学ぶ構え - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 学ぶ構え - 西川純のメモ 学ぶ構え - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は暴走族がウジャウジャいる学校で物理を教えることが、私の教師としての最初の仕事でした。そして数日で分かりました。大学、大学院で学んだことは全く無意味であることを。それらは、学ぶ構えのある子に対して有効であって、学ぶ構えの無い子には無意味です。そして、大学、大学院では学ぶ構えの無い子に対して何をすべきかは教えてもらっていませんでした。そして、大学に異動して、さまざまなクラスの実態を知れば、実は多くのクラスの実態は私の初任校と基本的に同じであることが分かります。両者の違いは、ハッキリと分かりやすいか、学ぶ構えがあるように「ふり」をしてくれるかの違いしか無いことを。

 従来型の授業で力量のある教師だったら、8割の子どもに学ぶ構えを持たせられます。しかし、9割、ましてや10割は不可能です。(ま、10割だと誤解している人は少なくないですが)ましてや、ごく普通の教師は7割行けばたいしたものです。しかし、その7割の過半数は、その教師が何もしなくても学ぶ構えのある子どもですが・・・・

 従来型の授業で学ぶ構えを持たせても、それは当人の学ぶ構えであり、広がりはありません。しかし、『学び合い』では「一人も見捨てない」を軸としています。従って、ごく普通の子どもが学ぶ構えを持たせられる子どもたちが残りの子どもを説得してくれます。

 『学び合い』はあまりにも、うますぎる、と感じる方もおられるでしょう。でも、しょうがありません。血縁関係の「一人も見捨てない」はDNAに刻みつけられたものです。そして、それを拡大したのが数千年の人類の歴史です。我々が数百万年洗練させた戦略なのですから。それが証拠に、学校教育以外、それも教科学習以外の全ての学びの場では『学び合い』で行われています。そして、『学び合い』のセオリーに従っている集団が結果を出しています。

 『学び合い』が変なのではなく、従来型の方が異常なのです。

[]数学教師 10:30 数学教師 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 数学教師 - 西川純のメモ 数学教師 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 我がゼミに中学校数学の教師が現職派遣院生として所属しています。(ま、ほぼ個人特定されますが。あははは)その人と話していると、独学で数学を学んだ私(生物物理学専攻)より数学を学んでいないのではないか、と思われる言動をします。そのたびに「あんた、数学専攻でしょ?」と突っ込みを入れます。そうすると、「私は高校までの算数・数学が好きだった。大学になったら数学が合わなかった」と言います。二人で笑います。私は、「そりゃ、子どもたちと共感的に理解し合えるよ」と言います。普段は馬鹿にしまくりますが、授業を見ているときの目の動きからかなりの力量があることは明白です。

 数学の蘊奥を極めた中学校数学教師も必要ですが、彼みたいな教師「も」(いや、より多く)必要のように思うのです。

 より多く、より深く理解していれば、良い教師だという、素人的な前提が世に広がっています。日本の教員養成も、教員再教育も、その前提に立っています。しかし、認知心理学のエキスパート・ノービス研究からも、それが誤りなのは明らかです。ま、学術を引き出さなくても、過去に教えてもらった、小学校、中学校、高校、大学の教師を思い出せば理の当然です。

 より多く、より深く理解するということは、分からない子どもの気持ちも理解も分からなくなるということを意味します。

[]原因は 05:42 原因は - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 原因は - 西川純のメモ 原因は - 西川純のメモ のブックマークコメント

 『学び合い』のごく初期、また、週1程度の『学び合い』の場合に、いろいろな問題が見えます。

 教えている子が、ほぼ答えを示し「これを書けばいいんだよ」と丸写しを強要します。

 また、分からない子が生わかりで答えを写します。

 それが『学び合い』の問題のように指摘される方がいらっしゃいます。でも、そうでしょうか?

 その人(つまり教師)が発見できたとき、その人が丸写しの場面を見ていることに気づかなかったのでしょうか?そりゃ無理だ。丸写しの言動を見聞きするには、丸写しをしている子どもたちの1m以内にいるはずです。考えてみてください。職員室で教師同士が話し合っているとき、1m以内に校長先生が立っていることを気づかないことってありますか?ありえません。

 つまり、子どもたちは気づいているのです。つまり、上記のことを教師に隠そうとしてはいないのです。つまり、丸写しを悪いことだと思っていないのです。何故でしょうか?

 第一は、教師が本当に分かることを評価しておらず、解けたか、解けなかったかを問題としているからです。しようがありません。従来型の授業では子どもを見取る時間は殆どありません。出来るのは、最後の出来るか出来ないかを数人に問うぐらいしか出来ません。それが続けば、出来ればいい、と子どもが思うのは当然です。

 第二は、意外でしょうが、毎時間、丸写しを教師がさせているからです。しようがありません。従来型の授業では、一人の教師が一人一人と対話することは出来ません。分からない子どもがいても、そのまま授業を進めざるを得ません。そして免罪符のように、最後のまとめを書きます。それをノートに写させます。写せば、それで良しとしています。つまり、教師の板書を「丸写し」させて、それが勉強だと言っているのです。

 つまり、丸写しがおこったとしたら、それは『学び合い』の問題では無く、そのクラスの多くで行われている授業の問題です。『学び合い』ではそれがよく分かるだけのことです。よく分かるから、子どもにフィードバックできます。それによって教師が求めていること、そして、人として将来に必要なことは「解けることではなく、本当に分かること」であることが分かるのです。

 もちろん、それが分からない子もいます。でも、それが分かる子が分からないこのそばにいれば問題はありません。

 あ~・・・・、『学び合い』の問題を指摘する人は、何故、自分の今の授業を振り返って考えないのだろうか・・・・