■ [大事なこと]一人も見捨てない
「一人ぐらい、見捨てていい」と思っている教師なんて殆どいません。でも、『学び合い』ほど「一人も見捨てたくない」という気持ちは強くありません。
例えばです。「国語の深い読みを理解させたい」という願いがあったとします。これはどの教科でも読み替え可能でしょうね。その願い自体は尊いことです。否定するつもりはありません。
しかし、「でも、その国語の深い読みを理解させるための授業はクラスの中の何パーセントぐらいは分かるでしょうか?」と問いかけるのが『学び合い』です。それがなくて「国語の深い読みを理解させたい」なのが『学び合い』以外です。そこで、『学び合い』の人が「でも、その国語の深い読みを理解させるための授業はクラスの中の何パーセントぐらいは分かるでしょうか?」聞かれることは不愉快だと思います。そして心の中に、「そういう時間もあっていいじゃないか」と思うでしょう。つまり、その時間は「一人ぐらい(実際はクラスの5割強)を見捨ててもしょうがない」と思っているのです。「そういう時間もあってしょうが無いだろ」でしょうね。ま、理解できますが、それが『学び合い』ではないということです。
でも、それを言えば、「じゃ、どうすればいいんだよ」と言いたくなるでしょうね。だから、『学び合い』なのです。「一人も見捨てない」ことを実現するには、一人の教師では無理なのです。だから、クラス全員が教え手になり、学び手になるしか実現可能にはなりません。
「ま、しょうがないじゃない」でとどまらず、徹底的に「一人も見捨てない」に拘り続けたのが『学び合い』です。
追伸 上記より理解が難しいのは、実は「一人も見捨てない」というこことを追い求めることが成績上位者の「国語の深い読み」を獲得する道であるということは、『学び合い』の実際の子どもの会話を「長期間」聞かない限り分からないことです。そして、もっと難しいのは「国語の深い読み」だけではなく、「その子の一生涯の幸せとは何か?」にも繋がることです。これが分かるには、学校教育の目的は何か、つまり人格の完成と教科の個々の学びとの関わりを理解することが必要です。これは学習内容でぐるぐるしている限りは出せない応えです。
■ [大事なこと]違い
一般的な意味での“学び合い”だったら、学び合うことを認めたり、制限することはあると思います。そして“学び合い”だったら、それは万能では無いと思います。
しかし、『学び合い』は違います。学び合うか否かは個々人がその場その場で判断します。
そして最も大事なのは、『学び合い』の本体は学び合うことでは無く、一人も見捨てないことを求めた教育であることです。だから、少なくとも公教育である場合は『学び合い』でやるべきで、ある場合は『学び合い』でやるべきでは無いということはありません。常に『学び合い』でやるべきなのです。何故なら、公教育であるならば「一人ぐらいは見捨ててもしょうが無い」ということはあり得ないと私は思います。結果として全てを救いきれないかもしれませんが、絶対に「一人も見捨てない」ということを諦めてはなりません。だから、本当に「一人も見捨てない」ということを求め続けるべきです。
もし「一人も見捨てない」ということを求め続けたならば、おそらく、現状の『学び合い』のテクニックがもっとも相対的に優れていると思います。もし、それを超えるものがあれば、私は直ぐにそれに乗り換えます。過去、二十年弱、常に、そのようにして脱皮し続けたのが現状のテクニックだから。
が、多くの人は『学び合い』を“学び合い”との違いが分からず、学び合うことを手段としたテクニックとしか思えないから、『学び合い』は万能では無い、という言葉が出るのだと思います。はやくテクニックの段階を乗り越えて、考えのレベルに至って欲しいと願います。