■ [お誘い]千葉の会
9月7日に千葉で『学び合い』の会が開かれます。お誘いします。http://kokucheese.com/event/index/105598/
■ [大事なこと]嫌な気持ちになる
人間は過去の経験から理解します。そのため、新たなものを、誤って理解してしまうことがあります。そのため『学び合い』で子どもが嫌な気持ちになるという誤解が生じます。
確かに私は学校で一番嫌な一言は“好きなもの同士で”という言葉がありました。
本当に『学び合い』を実践していない人がおっしゃる嫌な部分は、だいたい4種類です。
第一に、教えられてばかりいると、嫌になる。第二に、先とは逆に、教えてばかりいると、嫌になる。第三に、同調圧力。第四に、ひとりぼっちになる子がいる。
第一の、教えてばかりいる子が嫌に気持ちになる、ということですが、何故、嫌になるのでしょうか?これをおっしゃる方は、「教える子=偉い、教えられる子=駄目な子」という図式が当然のようにできあがっています。そのため、教えられている子は「自分は駄目な子で、それをみんなに分かってしまう」と思うだろうと予想します。たしかに、今までの“学び合い”であれば、そんなことが起こります。しかし、『学び合い』では「多様な人と折り合いをつけて自らの課題を解決する」ことが最高の能力だと考えています。だから、教えられてばかりいる、という子は能力の高い子なのです。教師がそのような価値観を持ち、折に触れ、語れば、その価値観はクラスの価値観となります。そうすれば、「教えられてばかりいると、嫌になる」ということは馬鹿馬鹿しいことであることが分かります。
なお、子どもたちの『学び合い』の姿を子細に分析すると、教え手と学び手はクルクルと変わるのです。そして、クラスの成績の一番よい子が、一番不得意な子に教えて貰う場面もあります。これは、教師の考える正答を教える、という狭い意味の「教える」では理解できないでしょうね。なお、この部分の研究に対して学会から賞を頂きました。
第二は、教えてばかりいると嫌になる、ということです。教えてばかりいると自分が勉強できず、「先生は自分が楽になりたいから学び合いをしているんだ」と思い始めます。まあ、ミニティーチャーみたいな実践ではありがちです。そして、『学び合い』の実践をする方も、初期段階に通過する儀式みたいなものです。
教師が『学び合い』の「多様な人と折り合いをつけて自らの課題を解決する」の「自ら」の部分が分かっていないと起こるのです。そして、「自分が楽だから」やるとそうなります。みんなが分かるために自分の出来ることをすることは大事です。しかし、それによって自分が出来ないことが起こっては本末転倒です。『学び合い』は自分にとって得であることをみんなが分からなければなりません。従って、自分が忙しい場合は「忙しいから、今は駄目」ということは良いことなのです。第一に、上記のようなことが起こるのは、一部の子どもに負担が集中する場合におこります。起こる可能性が多いのは異学年学習の最高学年に起こります。でも、教えられるのは他学年にもいますし、同学年、そして下学年にもいます。もう一つ起こりやすいのは、情緒障害のある子がいるクラスです。その子どもと相性のよい子がいた場合、教師が「あなたが頼りなのよ~」とオーラを出します。みんながみんなを支えなければなりません。「多様な人と折り合いをつけて自らの課題を解決する」を教師が正しく理解することが大事なのです。
第三は、同調圧力です。これはある程度はしようがないし、逆に、そうあるべきです。学校教育とは、社会が決めたルールを同調圧力で学ばせるところです。そのために、数十人の子どもが学ぶのです。そして『学び合い』で圧力をかけているのは「みんなが出来る」です。これは圧力をかけても問題はありません。しかし、程度があります。
何度も書きましたが、「多様な人と折り合いをつけて自らの課題を解決する」の理解が大事なのです。この言葉の中の「おりあい」が大事です。同調圧力で問題になるのは、多数者が少数者に対して「おりあい」をつけないことから生じます。民主国家なのですから、法に反しない限り全体の意見に反対する権利を持っています。その事を理解し、多数者は少数者に理解を求める必要があるのです。そしてその時点での妥協点を見いだします。
これは教師が民主主義はどんなものであるかを理解しなければ解決できません。当然、教師自身が専制君主(啓蒙的専制君主)であれば、問題となる同調圧力は起こります。教師は民主国家における公僕になるべきなのです。
第四はひとりぼっちになる子がいるということです。これが私にとってのトラウマでした。でも、『学び合い』の実践をしている方だったら分かると思いますが、基本的にそんなことは起こりません。何故なら、「一人を見捨てるクラスは、二人目を見捨てる、そして三人目は自分かもしれない」ということが徹底しています。結局、仲間を見捨てる集団は「おりあい」を放棄したのです。「多様な人と折り合いをつけて自らの課題を解決する」の「多様な」ということを意味が分かっていないことによって生じます。
もちろん、みんなみんな仲良しこよし、ということではありません。腹の中では、相性が悪いな、と思う人がいていいのです。折り合いをつければいい。太くなくても繋がればいい。いや、自分が直接繋がらなくても、自分が繋がっている人を通して繋がればいいのです。という集団が出来れば、「自分はひとりぼっちにならない」ということがみんなの前提となります。
さて、以上の誤解の原因は、いずれも「多様な人と折り合いをつけて自らの課題を解決する」という学校観を教師が理解していない場合に起こることです。ま、最初から分かるのは難しいと思います。しかし、上記のような問題が生じ、それを乗り越えたとき、「多様な人と折り合いをつけて自らの課題を解決する」という言葉の意味の深さを分かります。
そして、上記の問題は、『学び合い』をしていないクラスでも起こっているし、起こり続けています。例えば、「私は駄目な子で、それがばれたら馬鹿にされる」とびくびくしている子はいます。色々なクラス活動で同調圧力を受けている子はいます。かつての私のように、ひとりぼっちで、「好きなもの同士で」という言葉が怖くてしょうがない子はいます。上記の問題は、『学び合い』だけの問題ではありません。
しかし、『学び合い』では上記の問題が生じやすい環境を整え、クラスに問題があるならば教師の目の前でハッキリとさせます。そして、教科学習ではそれを乗り越えたか否かをテストの点数で評価できます。それに基づいて、何度も「多様な人と折り合いをつけて自らの課題を解決する」ことの意味を教師が語り続けるのです。
以上とは違って、本当に『学び合い』を実践している人が知る、子どもが思う嫌なところがあります。
『学び合い』を実践して、しばらくすると子どもたちは『学び合い』を支持します。でも、「たまには一斉指導もして欲しい」という声も起こります。何故だろうかと聞くと、一斉指導はボーッとしても終わるが、『学び合い』はずっとフル回転しなければならない、だから大変だから、という理由なのです。私は爆笑しました。なるほどなと思います。