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2013-09-07

[]私と同じ世代の方々へ 19:10 私と同じ世代の方々へ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 私と同じ世代の方々へ - 西川純のメモ 私と同じ世代の方々へ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 何度かメモったように、私はゼミ生がテクニックを学ぶことを奨励しています。自分が学びたいと思っていることを学ぶことは良いことです。でも、「学びなさい」と強いるつもりはありません。何故か。

 落語は基本的に同じことを喋ります。ところが、名人の人と二つ目の人では天と地ほどの開きがあります。話は同じなのですが、それに付加する大小様々なものによって生かされます。その付加されるものは、その人によって天と地ほどの差があります。師匠/弟子であっても米朝と枝雀では違います。名人といえども米朝が枝雀のまねをしても、枝雀が米朝のまねをしても、枝雀には及ばず、米朝に及びません。

 教師のテクニックも同じです。研修会や本で学べるテクニックは落語の話と同じです。それを生かすには、そのテクニックは子どもの前にさらし、厳しい批判を受けなければならないのです。この批判の厳しさが前座といえどもプロの落語家と落語研究会との違いです。しかし、多くの教師は、大多数がよい子たちの前で授業をします。結果として、下手なテクニックでも、下手であることがわかりません。本当の教師修行をしたいならば、荒れに荒れているクラス、最底辺の学校の子どもたちの前で授業をするべきです。彼らは容赦がありません。漫才師の最高の修行の場は寄席や演芸会では無く、ストリップ小屋だと言われます。私の学校現場の経験は2年間です。しかし、その2年間は上記の場でした。不遜ながらぬるま湯の二十年以上の経験はしたつもりです。

 じゃあ、若い教師にそれを経験しろとは申せません。そのような環境はテクニックを短期間に驚異的に上昇するでしょうけど、とにかく苦しい経験です。後進の若い教師にそれを経験させたいとは思いません。事実、弱い私は耐えられなくて大学に異動したのですから。そして、かつての私には暖かい職員室がありました。可愛がってくれた多くの先輩方がいました。でも、今の若い教師が全員、そのような環境を保証して貰えるとは限りません。今、学校の教育力は低下しているのです。

 さらに本質的な問題点は、テクニックで引きつけられるのは、せいぜい3ヶ月に過ぎないということです。子どもたちは、3ヶ月以内にテクニックでは無く、その教師の人間性を見ます。落語だって同じです。最初は「話」で笑います。しかし、「ご通家」であれば定番の落語だったら、数百回、数千回聞くことになります。そうなれば「話」で笑いません。次は技巧を鑑賞するでしょう。そして声に至るでしょう。でも、最後は落語家の人柄を感じ、安心して身を任せられる人に引きつけられます。子どもたちも3ヶ月もたてば何回も教師の話を聞いているのですから同じです。

 でも、人柄と言っても、若い教師に滝に打たれろ、断食せよとは言いません。それはテクニックの修行と同じように苦しいことですし、第一、あまり効果はありません。だから、『学び合い』では「一人も見捨てない」というシンプルな基本方針を提案しているのです。

 私は子どもも一人も見捨てたくないけど、教師も一人も見捨てたくない。その中には、第三者からは「なんで教師になっちゃったの?」と思われる教師もです。私はそのレベルの人を頭に浮かべて色々なことを考えます。そうなれば、その人を変えるのでは無く、その人を見捨てず、支え合える教師集団が必要です。だから、クラスの『学び合い』段階を脱し、『学び合い』ジャンプアップで紹介した合同『学び合い』を提案しています。これは『学び合い』だけが出来ることです。

 各人の出来ること、正しい道だと思うことは色々でしょう。私と同じで無くてもいい。しかし、若い世代を守ることが私の世代の責務だと思います。おそらく、そう思っている人は少なくない。でも、第三者からは「なんで教師になっちゃったの?」と思われる教師に対してもそう思っている人は多くないように思います。でも、そのような人を切り捨ててしまえば際限ないのです。

[]テクニック 07:27 テクニック - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - テクニック - 西川純のメモ テクニック - 西川純のメモ のブックマークコメント

 『学び合い』では話術も教材も不要、と私が言うと、「今までの自分の努力を否定するのか?」と反発をされる方がいます。気持ちとしては分かります。しかし、誤解です。

 不遜ながら。私には話術もあります。そして膨大な教材のストックもあります。しかし、『学び合い』において助けになることはあっても不利なることはありません。

 私は細かい人で心配性です。学生さんが何かをやれば、どんなことが起こるだろうかとシミュレーションを直ぐにして、だめ出しをしたくなります。これはリスク管理の上で重要なことです。ようは解決方法を自分で考え、それを学生さんに強いるのでは無く、集団作りに力点を置き、解決すべきであることを語ればいいのです。ある方法が最良の解決方法だと自分で思っても、例示はしても、それを強いること無く、それ以上の方法を出すことを求めればいいのです。そうすれば学生さんたちの考える方法の踏み台になります。ようは強いないことです。

 ようは、どれが根幹で、どれが運用であるかが分かればいいのです。

 『学び合い』の根幹は「一人も見捨てない」ということです。それがあれば、どんなテクニックを運用で付け加えてもOKです。しかし、「一人も見捨てない」ということを忘れれば、再現も無いテクニックの加算になってしまう。自分一人が使えるテクニックは一つです。しかし、それがフィットする子どもは全員では無い。全員がフィットするテクニックとは、クラス全員が目の前にいる子どもにフィットするテクニックを考え使おうとする集団作りしか無いのです。

 様々な「オレ流」はありです。しかし、「一人も見捨てない」という根幹を失ったら、どんなに立ち歩きがあっても、どんなに可視化があっても、それは『学び合い』とは似て非なるものです。この違いは「一人も見捨てない」ということを求め続けている人にしか見えません。見捨てられている2割の子どもの苦しみ、そして、その子たちを見捨てて大人になる8割の子どもたちの将来に恐れる人だけが分かります。私は、そのような人の輪を広げたいと思います。

 ま、4割の子どもが分かって、3割の子どもが分かったつもりになった授業だったら、教育実習生だって出来ます。いや、中学生でも出来ます。だって、2~3割は塾・予備校・通信教材で学習済みですから。そして、わかったつもりにするのは簡単です。着ぐるみや、器具や、話術で5分強に一度笑わせて、「君らは賢いな、わかったね」と言えばいいのです。なにしろわかってない子どもは「わかった」ということがわからないのですから。教師がわかったと言えば、自分たちがわかったと思い込みます。

 数十年の研鑽を深めた教師であっても、4割が6割に上昇する程度のことです。もちろん「わかったつもり」の子どもを含めれば全員ハッピーにすることも出来ます。しかし、実態はわかってはいません。そして見捨てられている子どもは必ずいます。教師の目の前ではハッピーに見えるかもしれないけど。

 もちろん、私だって全員をハッピーにしているなんて思っちゃいません。でも、それをもとめたとき、私が出来る唯一の道が『学び合い』であるということを疑ったことは一度もありません。その根幹の上でテクニックを併用しています。

 そんなことを昨日、ゼミ生に話しました。