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2013-10-20

[]ほっとかれる 19:25 ほっとかれる - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - ほっとかれる - 西川純のメモ ほっとかれる - 西川純のメモ のブックマークコメント

 昨日の長野セミナーでのフリートークの時間、他の所では話し合いが盛り上がっているのに、私の所には殆ど人が集まりません。心優しい三崎先生は「ひとりぼっちの子はいないかな~」と可視化しまくりです。

 しかし、私にとっては心地よい時間です。私が幸せを感じるのは「私がな~んもしていなのに、私が願っていることが実現する方向に進んでいる」ことなんです。私にも旧来の教師根性があります。自分が常に中心にいて、自分を必要とされる状態を快と感じる部分があります。でも、ほっとかれる喜びも知っています。

http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20030321/1172994735

[]ユーレカ 19:25 ユーレカ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - ユーレカ - 西川純のメモ ユーレカ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 発見って不思議だと思います。研究者として三十数年過ごしているのですから、色々な発見を経験しました。しかし、社会科学である教育学の発見はアルキメデスの発見とは違うように思います。

 今、思い起こせば不思議です。『学び合い』の3つの観は当初より不変です。なんで当初から思いついたのだろうかと不思議でなりません。でも、思い起こせば、それは理論的に構築したものです。教育学では、学校、子ども、教材の三つの視点で分析するのは古くからの作法ですから。だから、3つの観で構成したのは当然です。ただ、三つの視点の当初に定めた表現が不変であるというのは不思議です。でも、これはその表現がシンプルだからだと思うのです。シンプルだから成長することが出来る。

 しかし我ながら不思議なのは、その表現の意味するものがどれほど深い意味を持つかが分かるには二十年弱の時間がかかりましたし、今後もその深さは深まるでしょう。例えば「子どもは有能である」という言葉だって、言葉としては不変ですが、その意味するものは十年前と現在では天と地ほどの差があります。十年前に「子どもは有能である」と言っていた私を今あったら「ちゃんちゃらおかしい」と思えます。

 十年後の私が今の「子どもは有能である」という言葉を「ちゃんちゃらおかしい」と思っていたら、どれほど深い意味を「子どもは有能である」という表現に込めているのでしょうか?ぞくぞくするほど楽しみです。

 発見は発見の深まりの始まりなのです。

[]哀れ 08:50 哀れ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 哀れ - 西川純のメモ 哀れ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 高等学校の時の思い出です。

 ある先生は授業前に教師のドアの前に立っており、チャイムの合図とともに教室に入ります。そして、チャイムの合図ちょうどに終わります。授業の時間を一分、一秒も無駄にせず全力を尽くしていることが分かります。教材はしっかりと考えられており、説明も分かりやすいのです。力量のある教師です。

 が、私は嫌いでした。そして、わざと内職し、そして学年でトップの成績を取り続けました。何故嫌いかと言えば、「愛」が無いのです。生徒を敵としてみており、力業でねじ伏せるような感じがしたのです。おそらく、事実、そうなのだと思います。

 『学び合い』に反発される方の書いていることを読むと、圧倒的大多数は「愛」を感じます。『学び合い』をテクニックとして捉え、誤解されているのだろうと思います。残念だと思います。でも、嫌いではありません。そして、その人が好きになる人も少なくありません。

 しかし、そうで無い人もいます。いわゆる力量がある教師であることはよく分かるのですが「愛」を感じられません。力業で子どもをねじ伏せようとしています。全ての子どもに有効であると言っているのですが、自らが教える子は選別しています。おそらくその人は、「俺って凄い」と自らの力量に感激することはあるでしょう。しかし、「子どもって凄い」と感激して涙を流すことは一生涯無いでしょう。職場では恐れられ一目を置かれるかもしれません。しかし、中長期に繋がる人はおらず孤立し、集団の中で勤められないと思います。哀れだな~っと思います。

[]そればかりではない 07:53 そればかりではない - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - そればかりではない - 西川純のメモ そればかりではない - 西川純のメモ のブックマークコメント

 『学び合い』を実践された方の中に、「そればかりではない」とおっしゃって距離を持つ方がいます。ま、その方は『学び合い』を実践していたと思っているのかもしれませんが、実践したことがないのだと思います。

 『学び合い』の本体は「一人も見捨てない」という願いです。ということは、「そればかりではない」というのは、一部の子どもは見捨てられてもしょうがない、ということです。ということは、意味不明な話を1時間弱聞かねばならない、ということを週30時間ある子がいてもしょうがない、ということです。そして、クラスの中で繋がる人が織らず、それを何年も続いている子どもがいても、しょうがないなのでしょうか?その子たちが社会に出てからのことを想像すると恐ろしくないのでしょうか?

 結局、そんな人は、『学び合い』のテクニックをなぞったに過ぎません。

 では、私が「一人も見捨てない」を実現しているか?そんなことはありません。でも、「一人も見捨てない」ということを諦めていません。そして、自分の健康と家族の幸せに反しない範囲で、今できることを、まわりと折り合いをつけながら、やり続けています。

 「一人も見捨てない」ということが実現できると信じ、諦めない人が自らの授業を振り返りかえり、それを求め続けたならば、今の『学び合い』のテクニックに近いものになります。でも、それは結果としてテクニックが導かれたのであって、本体は「一人も見捨てない」ということが実現できると信じ、諦めないことです。

 『学び合い』が理解された状態は、どんな状態でしょうか?

 「一人も見捨てない」ということが実現できると信じられる人、また、それを諦めない人が2割です。そして、「一人も見捨てない」ということを必ずしも願っているわけではないが、『学び合い』のテクニックをなぞると人間関係が良くなるし、成績が上がるし、楽だからやる人が6割です。最後に、『学び合い』のテクニックを強硬に反対する人が2割です。それが健全な社会です。

 『学び合い』の本体を理解せず、テクニックをなぞっている人がいても良い。そして「そればかりではない」と言われる人もいても良い。もちろん、強行に反対する人がいてもしょうがない。でも、私が今やり続けているのは、「一人も見捨てない」ということが実現できると信じられる人、また、それを諦めない人を生み出すことなのです。

 日本の小中高の教師は80万人います。ロジャーズやムーアの理論によれば、そのうちの16パーセントが『学び合い』に理解を示したならばブレイクします。その16パーセントの中で「2/(2+6)=25%」が「一人も見捨てない」ということが実現できると信じられる人であればいいのです。つまり、「80万人×0.16×0.25=3万2千人」の人が「一人も見捨てない」ということが実現できると信じられる人になれば良いのです。まだ先です。でも、諦めていません。なぜならば、「一人も見捨てないことは可能と信じたいし、諦めたくない」と思っているのだけど、周りとの折り合いで、その心を封印している人はかなりいると思っています。それはしょうがない。教え子を救う前に、我が身と家族を守ることは恥じることではない。当然です。だから、その人たちが封印を溶ける環境を整えたいと願っているのです。そのために、全校『学び合い』・合同『学び合い』を前面に出すようになりました。