■ [大事なこと]横並び
校長と教頭との違いは、教頭と教諭との違いより大きい。これを理解する人は少ないですね。特に、教諭の方は。そのため、教諭でのやり方の延長上で教頭になった方が校長になると、教諭のような校長になってしまいます。
校長と教頭・教諭の違いは何かと言えば、「決定し、求め、評価する」ことなのです。教諭の延長上で、教頭の延長上で校長になった方の場合、合意を重視します。「合意が駄目なの?」と思われる方もおられるでしょう。でも、そんなのは教諭・教頭がやっていることと同じなのです。
断言します。みんなで話し合った結果で出される合意は、「現状維持」以外のものはあり得ません。だって、現状はそれによって利害を持つ人がいるから現状なのです。現状に問題を抱える人が主張しても、現状を良しとしている人が声高に反対意見を述べれば、決まりません。決まらなければ、現状維持となります。現状維持を求める人は決める必要が無く、決めない状態を生み出せばいいのですから。
それを超えて決める権限は、村社会である職員室で持っている人はいません。それは教頭も同じです。それを超えて「決定し、求め、評価する」ことが出来るのが校長なのです。
圧倒的大多数の校長は現状維持の横並びを基本としています。それによって日本の教育の不易な部分を守っている。でも、絶えず変化する部分を持たない生物は緩慢な死を迎えるしかありません。幸い、集団の2.5%程度は革新者で在り、13.5%は革新者をじっと観察し本物と偽物を見極める人です。校長にもそういう人がいます。
昨日、来たメールを紹介します。
上越教育大学大学院
教授 西 川 純 先生
突然のメールをお許しください。
夏の福島でのファーラムに参加させていただいた
○○県○○市立○○小学校の○○です。
『学び合い』を校内研究のテーマに掲げ、4月から取り組んできました。
まだまだ、「学び合い擬き」状態です。
要は考え方です。今まで培った考え方や手法、教師としての常識などを
ベースに『学び合い』をとらえようとしても無理があります。
そのことは、先生の御著書の中に基本中の基本として明記されている
ことなのですが、この部分がなかなか難しいです。
そこで、誠に勝手ながら、低・中・高学年ブロックから一人ずつ、計3名を
研修に出したいと思っております。
旅費等の算段もほぼつきましたので、お受け入れいただけませんでしょうか。
先生のスケジュールが大変なことは重々承知しておりますが、何とかお願いいたします。
『学び合い』の授業を実際に見せていただき、その学校の研究討議等に参加させていただけたら幸いです。その後、西川先生からのご講義や研究室の皆様との話し合いなどができれば、最高です。
いきなりの申し出で申し訳ございません。
もし、どうしてもその日でなければできない場合は、研修の方を優先しますので、
なにとぞよろしくお願い申し上げます。
本当に突然このような申し出をしまして申し訳ございません。
私たちは、何とか子どもたちにとって良い学校をつくりたいと思っております。
夏休みも、冬休みもいらない!休みの日なんかいらない!学校に行きたい!
そんな風に子どもたちが思う学校にしたいと思っております。
どうか、西川先生、ご指導ください。
どうかよろしくお願い申し上げます。
以上のメールをゼミ生に読ませたら、「感激しました」、「やらねば」と言っていました。
こんな校長が2.5%+13.5%います。でも、そうで無い校長が84%いるのです。
横並びで一生終える校長は、何が楽しくて校長になるのだろうか、と思います。給料も退職金も大して違いは無い。使える権限を使わずに終える。子どもとのふれあいを捨て、事務仕事に埋もれる。
校長だけが出来ることを十分にしなければ校長になった意味は無いと思うのです。
追伸 最近は校長レベルの問い合わせがぐんぐん増えています。やっと、16%の校長の目にとまるようになってきたのだと思います。
■ [大事なこと]やればいい
教育行政を端から見ていると、「やったか否か」だけを言って、「出来たか出来ないか」はあまり口を出しません。それは教育行政のもとの学校もそうです。教育行政が結果を求めると、色々な理由を挙げて反対の声が出ます。そして、結果を公開することを求めると、大反対です。だって、教員集団の身内の中で処理できなくなるからです。
結果として、学校の「やった、やった」とやったことを宣伝するのですが、その結果に関しては象徴的なものしか出せません。
総合学習でどんな子どもを育てたいのでしょうか?端で見ていると、総合学習を計画している教師にとっては素晴らしい総合学習になっていますが、教師の引いたライン通りに学習を進めている子どもにとっては総合学習にはなっていないように思うのです。
ICT教育によってどんな子どもを育てたいのでしょうか?職員室においてインターネット接続が制限されている学校で、子どもたちがどんな子どもに育つのでしょうか?
生活科でどんな子どもを育てたいのでしょうか?遊びと学習の違いをどこにおいているのでしょうか?遊びだったら、学校でわざわざする必要はありません。
おそらく、色々説明は出来るでしょう。しかし、その説明が説明になっているか、言葉遊びになっているか、それを判断する簡単な方法があります。その学校でのテーマを子どもたちに聞いたとき、それを子どもが語れるか否かです。
今度、どこかの授業公開している学校に行ったとき、そこで渡される要綱を休み時間の子どもたちに示すのです。そして、その学校のテーマに関して、そして、自分たち(つまり児童・生徒)はどのように取り組んでいるかを聞いて下さい。十中八九、いや、百のうち九十九以上は「ぽかん」としているでしょう。
え?と思うでしょうね。でも、考えてみてください。当たり前のことをしているのです。 これは理科教育を専門としていたときから(つまり『学び合い』以前から)わたしがよくやった方法です。名人授業と言われる授業を見せて貰います。理科の授業は大抵、実験が公開されます。実験が開始すると、学力中位の子に「この実験は何のための実験なの?」と聞きます。それに対して子どもが応えられたら、良い授業なのです。ポカンとしていたら、その先生が周りの先生から名人と言われても、その程度の先生なのだと判断します。この判断方法はおかしいですか?
子どもに育って欲しい姿がハッキリとイメージされているならば、教師はそれを何度も語り、求め、評価するでしょう。子どもにとっては耳たこになるはずです。そうなれば、子どもはどのように振る舞うべきかをハッキリとイメージできるはずです。それは生活科を受けている小学校低学年の児童も同じです。
逆にそれが出来ずに、何故、子どもは求める姿に成長できるのでしょうか?彼らは読心術を持つエスパーではないのです。
でしょ?私にとっては、教師だけが学校のテーマを語れて、子どもには語れない状態を変だと思わない現状を私は変だと思うのです。私っておかしいのかな~・・・
追伸 『学び合い』をまともにやっていれば、子どもはちゃんと『学び合い』のことをかたります。だって、耳たこ状態になっているはずですから。だから、授業公開で子どもたちが語る場面を設ければ、彼らは自信を持って語るでしょう。
でも、これって『学び合い』か否かに限らず、総合学習でもICTでも生活科でも何でもやるべきだと思うのです。ただ、多くの先生方は躊躇するでしょう。そして、それを合理化する理由を述べるでしょうね。何故なら、『学び合い』では前提としている、子どもたちの能力を信じられないからです。
私が子どもが自らの学習を参観者に説明する場面を設けることを学校にアドバイスするようになったのは6年ぐらい前からです。その当時は『学び合い』の同志もドキドキしていました。しかし、最近は広がっています。だって、一度でもそれが出来ることを見さえすれば、『学び合い』で育った自分の学校の子どもだって出来ることを確信できますから。