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2014-01-02

[]孝行 20:27 孝行 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 孝行 - 西川純のメモ 孝行 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は色々な人から相談されました。その一つのジャンルは親との関係です。残念ながら『学び合い』の理論が適応できない数少ない事例は、親、伴侶、子どもという1対1という関係です。というので、ここからは実証的データではなく、一人のおっさんの意見です。

 私は人間社会の習慣、特に公序良俗は利害に一致するものであると信じています。

 教員養成系大学に勤めていると、実に親孝行な学生さんに出会います。親孝行だからこそ、地元とで安定した生活を実現しようと考えて教員という道を選ぶ人が多い。私のような人間はそんなことを考えず、自分が知りたいこと、やりたいことだけを考えていたから、就職のことを考えずに大学を選びました。

 その学生さんは悩みます。親と同居しないとならないと思っているからです。

 私はその学生さんに語ります。

 まず、親が子どもを育てるのは、自分のために育てているのであって、子どものために育てているのではありません。このことは自分が親になってハッキリしました。子どもを育てさせて「いただける」おかげでどれほど多くのものを子から頂いたか。だから、子どもは親に負い目を持つ必要はありません。

 では、今までの日本で親との同居が常態だったのでしょうか?特に、長男は。

 これは誤解です。

 日本の歴史の中で親との同居は常態ではありませんでした。これを理解するには、家族を「愛」で考えるのではなく、「企業」として考えた方が良い。

 かつての家族は企業です。まずは親が社長で、子どもが社員として入ります。つまり家業です。やがて家督という株・資産を子どもに譲り社長にするのです。そして、自分は会長職になります。そして、会長職の給料を貰います。つまり、子どもに株・資産を譲れない人は同居できません。

 家業を継げない子どもは家を出ます。そして親を面倒する義務もありません。これは長男も同じです。そして、次がせるべき親は子どもから面倒を見て貰えません。きついことですが、姥捨ては日本では常態だったのです。

 もちろん、戦後社会にも次がせるべきものを無かったのに同居した人もいます。それは昔の武家の次男、三男の生活のような位置にいました。つまり、厄介者でした。死なない程度に生かされていました。

 もちろん、それを超える待遇を得た人はいます。それは、それなりの働きをしたからです。

 残念ながら、現在の老齢者(次は私自身も)は誤解があります。それは「親は子どもから面倒を見て貰える権利がある。伝統がある。」という誤解です。それは日本の伝統の自分にとって都合の良いつまみ食いです。

 昔も今も、老齢者には選択肢は

 第一に、子ども世代が十分に生活できる基礎を与えて、その権利として老後を生きる。

 第二に、子ども世代に十分に生活できる基礎を与えらないが、子ども世代にその存在が十分にメリットを与えられるから、その権利として老後を生きる。

 第三に、子ども世代に十分に生活できる基礎を宛て得られず、子ども世代にその存在が十分にメリットを与えられないならば、かつての武家の次男、三男のように日陰者として生きる。

 第四に、子どもに頼らず、自活する。

 以上、4つのうちから選択しなければならないのです。

 「子ども世代に十分に生活できる基礎を宛て得られず、子ども世代にその存在が十分にメリットを与えられ」ないにも関わらず、親としての権利を「愛」で要求するのは、日本史上、最近の希な現象です。老人になれば、自分の力量に合わせた老後しか生きられません。

 私は人間社会の習慣、特に公序良俗は利害に一致するものであると信じています。私は第二、第四の道を探りたいと思います。

 我々が守るべきは、妻であり子です。父母では無い。父母は、自らのために子どもを育てたのです。父母への感謝は大事です。それを自分の子どもが見ています。でも、それが妻や子どもの幸せに反してはなりません。

 ここまでギリギリまで突き詰めた後に「愛」を考えましょう。私を育ててくれた両親を感謝しています。どれほど苦労して育ててくれたかを、今はよく分かります。同時に、その愛を妻や子どもに向けるのが孝行だと思います。我が母は、第四をしっかりやっています。それが民主国家における自由を謳歌する、方法ですから。