■ [う~ん]苦しい
ネットサーフィンしていると、ある写真を見ました。そこには子どもたちが満面の笑みをたたえて、元気いっぱいに手を上げている写真です。とても幸せそうな子どもたちの写真。そこには「闇」は見えない。でも、私は「闇」が見えてしまう。見たとたんに動悸がして、暗い気持ちでいっぱいになってしまいます。
私の頭の中・・・・
全員が分かるような質問は出来るわけ無いよな。手を上げられない子がいるよな・・・
手を上げても、教師からだめ出しくうこがいるよな。その子はどんな気持ちなんだろう。
そして、何よりも暗くなるのは、8割がこうなれば、多くの教師は全員が満足していると思うだろう、と。教師を支持している子どもは2割。それ以外のニコニコしている子どもの心の中は何だろう・・・・
■ [大事なこと]医療と教育
ある方と特別支援のことでメールのやりとりをしました。その方の書かれていることの一部に違和感がありました。一言で言えば、「それは医療であって教育では無い」というものです。で、じゃあ私は医療と教育をどこで分けているのだろうかと考えました。私なりに考えて結果、医療と教育はその人の幸福を目指している点では全く同じだと思います。
しかし、それを実現の仕方が違うように思うのです。医療の場合は、「その人を大多数の人と同じ状態に同じにする」と単純に割り切れます。なぜなら医療を受ける人の大多数は「その人を大多数の人と同じ状態になる」ことと「その人の幸福」は単純に一致するからです。もちろん、安楽死の場合は単純ではありませんが、大多数は一致します。
しかし教育は違うと思うのです。だって、その人の幸福と一致する「大多数の人と同じ状態」がそれほど多くはないと思います。
そう考えてみると、特別支援ばかりではなく、私にとって今の教育全般が医療と同じであることが分かりました。
今の教育で、子どもの二十年後、三十年後、四十年後を考えている教師がどれほどいるでしょうか?教師が子どもの将来を考える九割り以上は、その日の、その時間のことが分かるか否かだと思います。それが分かることが、二十年後、三十年後、四十年後にどのように影響するか考えません。学級担任である小学校の場合は、長期スパンといっても1年が基本です。学年団を組む中学校は3年が基本です。しかし、担任が替わり、進学すれば、それからはその人、その学校の担当だから、自分の担当では無いと思うのでは無いでしょうか?そして、変わった後に教え子が問題を起こせば、それは次の担任、次の学校の責任であり、自分の責任では無いと思うのでは無いでしょうか?
偉そうなことは言えません。私もそうでした。私なりに最高のクラスをつくったと思って大学に異動しました。しかし、卒業式に呼ばれたとき、私のクラスの子どもの殆どは退学していました。当然、私の次の担任を恨みました。でも、今は分かります。その責任は私にあります。私があまりにもテレビドラマ的熱血教師になり、話術・教材をばんばん使う授業をやったため、子どもは私と強く繋がるクラスを作ってしまったのです。それが原因です。その自責の念があるから、現状の教育に不満があります。
今、我々はある調査をしています。今、三十代、四十代になっている元特別支援学級の保護者(つまり六十、七十代)に、今から考えると学校で何を学んで欲しかったかを聞いています。さて、この保護者に対して顔向けできる教師がどれほどいるでしょうか?保護者の回答は「学校に何も期待しない」なのです。そりゃそうでしょう。社会生活で殆ど役にも立たない、筆算や書き順のために義務教育の殆どを費やしているのですから。
これは健常児のクラスでも同じです。今、三十代、四十代になっているに顔向けできる教師はどれほどいるでしょう。少なくとも私は顔向けできない。もちろん私と違って十分に誇れる成果を上げている方も少なく無いと思います。でも、それは筆算のやり方を分からせたからでしょうか?違うと思います。その方の「人」だと私は思います。
ここまで来て、私なりにまとまりました。医療は今に焦点を当て、それを未来につなげる。教育は未来に焦点を当て、今につなげる。少なくとも、私はそう考えたい。