■ [大事なこと]エレベーターガール
自分なりに納得できるたとえ話が出来ました。研究者(私)と実践者との関係です。私はエレベーターガールなのです。そして実践者はお客様。
私はお客様が別な階に移動するためのお手伝いをします。でも、エレベーターガールは各階にはおりません。あくまでエレベーターの中のお仕事です。
■ [大事なこと]研究者の役割
『学び合い』という考え方は、かなり深いし、汎用性が高い理論です。しかし、現状での圧倒的大多数はテクニックレベルの理解しかしていません。そして、その大部分は実際見てもおらず、もちろん、実践もしていないのにも関わらず伝聞や解像度の悪い動画を元に云々しています。
また、実践されている方も、大部分はクラスレベルの『学び合い』を『学び合い』だと理解されている。しかし、その先には合同『学び合い』があり、学校『学び合い』があります。そして、学校を核とした地域コミュニティの再生があります。
後半の意味を分かるためには、何かを子どもに教えるというレベルを超えて、子どもを一生涯幸せになるために育てるという理解に進まなければなりません。
でも、ここまでは学校教育というレベルで止まっています。『学び合い』はもっと先があります。人間社会を変革する鍵があると私は思っているのです。
私は現状の相手のレベルに合わせて説明します。そして、私の説明の圧倒的大多数は、教室レベルのテクニックの話です。最近は、教室を超えたレベルの話をします。
さて、ネットサーフィンをしていると様々なご意見を読みます。でも、「それは、あなたの現状に『学び合い』を当てはめているから生まれる誤解だな~」と思います。そして「現状はそうだけど、今、あなたが気づいている問題を解決するためには、もう少し理論的に考え、現状を少しでも乗り越えて欲しいな」と思うのです。まあ、それが研究者の役割ですから。
現状から帰納し、演繹をし・・・。抽象化し、具体化し・・・。その繰り返しが出来るのは研究機関です。
私はしょせん小中高の教育に関しては研究者です。従って、私が全国の先生方に教えられるのは本来半年レベルで卒業できるレベルのことです。そこから先は実際の先生方しか進められません。しかし、現場で実践している先生方は、常識が働きどこかでストップしてしまう。それを乗り越えるための「半年分」を担当するのが研究者という役割です。
■ [大事なこと]教師、クラス、学校
さて、教師やクラスや学校の姿は様々なレベルで語れます。さて、どの段階で違和感を感じるでしょうか?
多くの先生方に違和感を与えないために、『学び合い』ステップアップ等の書籍は、わざとテクニック的に書いています。可視化もテクニックに過ぎません。そんなの捨てるべきなのです。でも、教育は「心」ですと説明しても禅問答です。だから、まずはテクニックから入ります。ま、なんでもそうです。
でも、「心」が大事だと分かったとしても、その心を維持するのはとても大変です。とくに何か問題が起こると心が揺らぎます。それに対応する道は二つです。一つは、心を安心させるために先祖返りするのです。つまりテクニックを併用するという道です。ところが、テクニックを使えば「心」がどんどん崩れていく。
もう一つの道は、他の人とネットワークを構成する道です。人のバイオリズムはバラバラです。自分が落ち込んでいるときに、上手くいっている人がいます。その人は、人の失敗は冷静に見ることが出来ます。結果としてセオリー通りに考えることが出来るのです。
でも、それを実現するためには何が必要でしょうか?本当は「心」が大事なのです。でも、それは禅問答になります。だから、分かりやすいテクニックを開発するのです。つまり、授業のテクニックでは無く、教師同士のネットワーク形成のテクニックです。それが合同『学び合い』や学校『学び合い』のテクニックであり、ジャンプアップという本にまとめました。これによって授業レベルの『学び合い』に関しては「心」で成立させることを保証したのです。
でも、このあたりになってくると教師役割ががらりと変わってきます。そして、なによりもクラスや学校の役割が変わります。もし、学校を核とした地域コミュニティーの再生レベルを超えるためには、現状の教師やクラスや学校の概念を捨てねばなりません。現状の教師やクラスや学校は無用です。こうなると感情的に反発する方もおられるでしょう。
でもね、社会における学習はそうなっています。そして、学校教育でも、一定以上以上の大学の専門教育や大学院教育はそうなっています。
これを書くとビックリするかもしれませんが、私の授業担当は、前期に大学院の科目1つと後期に学部の科目1つだけです。あとは、共通科目の科目担当が大学院で3回、学部で1回です。つまり、年間の講義回数は34回だけなのです。これは上越教育大学が大学院大学だからです。では、私は暇か?いいえ、暇ではありません。何をやっているか、西川ゼミの研究指導に時間を費やしています。
これは上越教育大学教職大学院の教員は皆同じでしょう。
では何をやっているか?
まず、各教員は学則や教職大学院の縛りの中で可能な、自分自身のゼミ経営の方針を明らかにします。学生は教員と面談をしながらゼミを選ぶのです。ゼミの人数は各教員で違います。各教員は己の専門性と、人脈と、予算でゼミ生の成長をサポートするのです。(これって、会社と同じでしょ)これを完全に徹底するために、インターンシップと併用します。これって上越教育大学院のカリキュラムで実現しています。
さて、次の段階があります。(この段階は、ゼミ生相手以外には殆ど話しません)
次の段階になれば、学校という組織が無くなるのです。その姿は、昔の徒弟制に近いものです。ただ、昔の徒弟制は技を秘技としてクローズしていました。また、ある集団に入るには縁故関係が必要でした。行政が押さえるのは、そのようなことが無いオープンにすることを求めるのです。(このあたりを理解するには、経営学や徒弟制の歴史の勉強をしないと無理だと思います)
どうです。多くの人から見えれば、馬鹿げた妄想ですよね。でも、このレベルで物事を考えている私が、ネットサーフィンしているのです。まあ、こんな妄想をしている方が、おかしいことは自覚しています。
■ [大事なこと]行政に望むもの
さて、一気に現実に戻りましょう。以下で書くことは、今でも直ぐに出来ることだし、多くの人も納得しやすいレベルです。その先はありますが、ここでは書きません。
立法・行政の方から、立法・行政の立場からやって欲しいことはありませんか?と聞かれることがあります。私の応えは「ありません」です。つまり、その方々は『学び合い』をプロモートする方策を聞いているからです。『学び合い』は本人がやりたいと思わなければ絶対に出来ません。そして、やりたくも無いのにやれば失敗する。そして、その失敗を『学び合い』のせいにする。それが私は嫌なのです。
でも、やって欲しいことが4つあります。
第一に、『学び合い』も含めて、方法を強いないで欲しい、ということです。特に、実証的なデータに基づかない、素人の思い込みで方法を一律に強いないで欲しい。
第二に、達成すべき評価基準を明確にして欲しい。例えば、学力向上でも、「学力」は何を意味するかを明確にして欲しいです。例えば、日々のテストとNRTと全国学力テストは違った学力を測っていることを理解すべきです。また、「言語活動」だって、何を持って言語活動であることを明確にして欲しい。それがないから、子ども同士の会話は無く、基礎的文法という言語活動のツールを学ぶことが言語活動になってしまいます。
第三に、評価方法です。最高点や平均値で評価して欲しくない。例えば、高校の実績を東京大学の入学者で評価するならば、大多数を切り捨てる方法が一番安直な方法です。また、平均値でやれば、中位層に合わせた単純ドリル学習が一番安直な方法です。いずれも学校教育がやるべきことではありません。ではどうするか?結果の「分散」を評価基準にすべきです。もしくは最低点を見るべきです。
第四にちゃんと評価することです。いままでは、行政は方法を強いています。そして、その方法に従ったか否かを評価しています。その割にアウトプットは評価しません。すれば自らの首を絞めるからです。
この4つ、当たり前のことしか言っていません。でも、やっていません。理由は、望んでいる人が殆どいないのです。言い訳さえ出来れば、それでいい人が少なく無い。偉そうなことは言えません。私も高校教師の時に何を願ったか、毎日、授業らしきものが成立させることでした。
以上4つをまとめると、
私の願いは、「なんでもいいから願って欲しい」ということです。ただし、本気で願って欲しいということです。本気で願っていただければ、『学び合い』は結果を出せます。何故なら、ようは中もしくは下の子が動けば結果は出せます。その子たちが動こうと思わせる力は教師には無く、同級生にあるからです。