■ [大事なこと]ALT
大学の学部生の時です。同級生の部屋でダラダラと時間を過ごしていました。その時、電話が鳴り、同級生は「もしもし」と言いました。その後、同級生の話している言葉が全く分からないのです。英会話よりも分からない。彼は津軽育ちだったので、父母と話すときには津軽弁で話していたのです。ビックリしましたが、自分と違う言葉を話せることにビックリしましたが、だからといって同級生は同級生です。私が津軽弁を話せなくても問題はありません。
日本人の大部分は英米人と英語のコミュニケーションをしないで一生過ごせます。でも、日本人は英米人とどのように付き合うべきかを判断することは必須だと思います。私はALTは子どもたちと「人」として付き合って欲しいと願います。ALTの会話の殆どは日本語で行い、話題の多くは雑談であるべきだと思うのです。自分の子どもの話、親の話、その地域での買い物の話を多くして欲しい。そうすれば、見た目は違っても基本的に「人」であることを感じることが出来ます。
国語は日本人としての特異性を学び、英語はホモサピエンスとしての普遍性を学ぶ。そんなイメージを持っています。
■ [大事なこと]古典
私は国語の陶冶価値は、日本人固有の価値観の共有だと思っています。だから、古典は現代語で読むべきだと思っています。その代わり、より多くの古典を読ませたい。
しかし、学生は古典を読みません。夏目漱石すら読んでいません。せいぜい、十年後には消え去るもの程度です。具体的は、アマゾンで「1円」で流通しているような本です。それでもあれば凄いものです。
何故だろう、と思います。
庶民文化が高まったのは江戸時代中期です。その頃は歌舞伎が文化です。都市地域の市民は歌舞伎を通して価値観を共有していました。「だいじゅう」と言えば太閤記十段目のことです。忠臣蔵は常識でした。
この前、学生の馬鹿話の中で桃太郎のサル、犬、キジが知仁勇の象徴であることを話したらビックリしました。そもそも昔話などの勧善懲悪の規準の中には外国人には理解できないものは少なく無いと思います。逆に、グリム童話は日本人にはこれが童話なのかとビックリするものがあります。これこそが国語の国語たる意味だと思うのです。
国語の専門家の方からお叱りを受けることを十分に理解した上で申します。
ありおりはべり、なんて学ばなくても良いと思っています。もちろん、学んだ方が良いことは分かりますが、それ以上に大事なものがあると思います。
作品の中に秘められたものを、なにげに書かれている言葉から読み取ることを学ばなくても良いと思っています。もちろん、学んだ方が良いことは分かりますが、それ以上に大事なものがあると思います。
では、何を学ぶべきか。それは、その作品を読んで多くの子どもが分かること、共有していることが固有の価値観があることを意識的に理解することなのだと思います。
長崎県の原爆資料館の中で、原爆の模型の前でポーズをしながら記念撮影をしている中国人観光客を見ました。正直、カッとしました。そして、共感する日本人は少なく無いと思います。でも、記念撮影をしている中国人観光客に悪意はありません。価値観が違うのです。おそらく、逆のことを日本人観光客はしていると思います。
私は国語教育に大鉱脈を提案しているのです。「深い読み」より、より多くの日本人に納得する陶冶価値があることを提案しているのです。