■ [嬉しい]宣言

我が教え子にして尊敬すべき同僚である閣下に、Mさんが本を出したことを引き合いに、何度もかけた「いつ本を出すの」プレッシャーをかけました。思わず閣下は、「数ヶ月」と口走ってしまいました。
食事では「数ヶ月っていつ?2、3ヶ月?」と聞くと、「一桁の月」という馬鹿な学生の言い訳みたいものを言い出しました。そこでさらに追い詰めると、「今の立場になっても変わらないのだから」と言うと、現西川ゼミの人が「はじめて先輩として見ることが出来ました」と言いました。私のプレッシャーのかけ方は一貫していますから。
最後に、「じゃあ、夏休み明けには完成版とは言わないけど、それに近いものは出来るよね?」と言うと、頷きました。私はこのことをブログ等で宣伝するよと言いました。
ということで宣伝します。
私は当人の得になることしか求めません。私が本を書きなさいと求めるのは、100%商業ベースで成立し、価値ある本を書けることをゼミ指導で確信出来る人です。書けば、良い本になるはずです。楽しみです。
閣下、以上のように公開いたしました。
■ [大事なこと]戦い方

久しぶりに私の過去のブログの記事を見直すことがありました。本題とは違う内容ですが、多くの同志に分かって欲しいことが書いてあったので、全くそのままアップします。
問題があったら、直ぐに完全解決したくなるのは気持ちとして分かります。でも、そんなことはありません。長い時間をかける必要があります。しかし、長い時間をかけると、始原の願いを忘れてしまう。執念深さも大事です。
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ゼミ生には「教師の第一の資質は、保護者・子ども・社会の悪口を言わないこと。それが本当であっても。言えば、自己改善しなくなる。そして、自分の言葉で、自分を腐らせる。」と言います。
本日、ふと、自分の特徴を発見しました。それは家族に対して、家の外の人のことを否定的に言ったことがないのです。思い起こせば、小さいときからです。何でだろうと自己分析しました。そうすると、私は特定の人を憎み続けるということがないようです。これには、ちょいと説明が入ります。学内政治や学会政治において、政敵はいます。ある情報が入ると、カッカして怒ります。しかし、それは数時間以内に収まり、その人にもその人なりの立場があるんだろうと理解します。そして、淡々とその人の論を潰す作戦を考えます。そのころには、その人に対する憎しみはありません。まあ、例えてみれば、コンピュータとの対戦ゲームをやっているようなもんです。コンピュータに対して、憎しみは持ちませんよね。頭は、どうやって、それを乗り越えるかでいっぱいになるはずです。あれと同じです。だから、家に帰ることには、わざわざ家族にそのことを言うことはないのです。
何でそうなっているのかを考えました。それは、憎しみ続けることによって、自分の言葉で自分を腐らせたくないという、自己防衛が無意識に働いているのだと思います。
追伸 怒りは収まりますが、執念深さは相当なものです。
http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20031218/1172910563
■ [お誘い]越後 『学び合い』の会

10月4日(土)に上越で 『学び合い』の会があります。大々的にお誘いします。今年も生の 『学び合い』をお見せします。ウイークデーでの出張できない方のためには朗報だと思います。
■ [大事なこと]公

私は国語の陶冶価値は、日本という国を理解し意識することだと思っています。
中国の鶏肉問題は何故起こったのでしょうか?食品加工には様々な人が関わります。特定の人だけが非常識であっても、周りが気づけば内部告発があります。それに内部告発もあるだろうということで、非常識な人も暴走しません。しかし、今回の事件を見る限り、周りの人も「まあ、それぐらいは・・」と思っていたし、非常識な人もそう思うだろうと想定したのだろうと思います。しかし、中国の方々は一人一人会えば、ごく普通です。では、何故、こんな問題が起こるのでしょうか?私なりの理解です。
それは「公」という概念があるか、無いかだと思います。
基本的に近代以前の社会には公という概念は希薄です。「仁・儀・礼・智・忠・信・考・悌」という日本の徳目は中国に源がありますが、その中国にも公という概念が希薄です。例えば、三国志、水滸伝を読んで下さい。そこに現れる仁・儀・礼・智・忠・信・考・悌は全て、個人対個人もしくは自分の狭い眷属に対してのものです。諸葛孔明は劉備玄徳のために数十万の人を殺しても恥じません。それが近代以前の仁・儀・礼・智・忠・信・考・悌だと思います。
だから知り合いとして非近代人と接する時には、今の日本と変わりありません。しかし、知り合いでない非近代人と接する時は、相手は自分を「人」として認識していないと考えた方が正確だと思います。それは中国の方々ばかりではなく、日本も江戸中期以前はそうです。
では、何故、今の日本があるのでしょうか?そのあたりを国語の方に明らかにしてもらいたいと思います。そして、意識的に教材にして欲しいと思います。
例えば、桃太郎が鬼ヶ島から持ってきた宝物で親孝行したでハッピーエンドにすると前近代的です。しかし、鬼によって奪われた人たちに分け与えたという話になると近代的です。
ま、国語の専門外の独り言です。
■ [大事なこと]出来ること

「起きて半畳、寝て一畳、天下取っても二合半」という言葉があります。人の力の差は思うほど違いはありません。どんな人でも1日は24時間です。もちろん差はあります。でも、一桁違うことは殆どありません。そして、どんな人でも一人の出来ることは微々たるものです。
でも、事をなす人と、成さない人があります。その差は、多様な他人の能力を借りられるか否かで決まります。ネットワークが力の差です。だから、おのれの力量を高めると同時に、それ以上に多様な人と繋がれることが力となります。
私より英語やフランス語の得意な人はいます。私には難解なヴィゴツキーを易々読み解ける人がいます。しかし、私ほど日本中の広い地域で多くの実践者と繋がり、多くの助力を得られる教科教育学研究者がいるとは思えないのです。それが私の力となっています。
でも、私と繋がっている人は、間接的に私の繋がっている人と繋がることが出来ます。そして、『学び合い』の会で直接会えば、十年来の知己となってしまいます。
我々は繋がることの価値を知っています。とうことは、とても凄い力を得ることが出来るのです。それを最大限に生かしましょう。