■ [親ばか]中学校まで
息子が食事が終わると、私の膝の上でテレビを見ながらデザートのヨーグルトを食べるのが毎日のことです。161cmの中2の息子が私の膝に乗ると、私より大きくなります。
その姿を見て、家内が「いつまでお父さんの膝で食べるの?」と聞きました。息子はだいぶ悩んで「中学生のあいだ」と応えました。家内は、「じゃあ、高校生なったらお父さんの膝で食べないんだね」と確認すると、息子は「う~ん、その時考える」と応えました。
ということで、あと1年半以上は息子を膝の上で晩酌が出来ます。
■ [大事なこと]理論2
理論なき教育実践が広がると、その是非の評価は、誰が言ったとか、あの学校がそうやっている、ということが判断基準になります。理論があれば一定の用語を使い、一定の論理を使います。ただし、それは宗教も同じです。理論の中でクローズしているのが宗教です。科学的理論の特徴は、実証的データに一致するか否かで最終的な是非が問われます。
■ [大事なこと]理論
朝食にステーキを出し、昼飯に素麺を出し、夕食にケーキだけを出したとします。翌日は、朝食に海藻サラダだけを出し、昼にチャーシュー麺を出し、夜はピザだったとします。その人に「何でそんなメニューにしたの?」と聞いたら、「だって、ステーキも、素麺も、ケーキも、海藻サラダも、チャーシュー麺も、ピザも、あなたは大好きでしょ」と応えたとします。さて、そんな人をどう思いますか?
どんな教材も指導法も、その背景には様々な前提があります。ところが、一般の教育本や研修会では、その部分が割愛されています。筆者や講師がそれを当たり前にしている場合もありますが、当人自身がそれを意識したことがない場合もあります。
自らが独自の教材や指導法を開発するような人は、意識するかしないかは別にして強い前提を持っています。それ故、その人が生み出す教材や指導法には一貫性があります。ところが、前提を明らかにしていない本や研修会では、その人の前提が見えません。
でも、試してみれば、それなりに効果があります。そこで、その教材や指導法をツールの一つとして持ちます。そのようなツールが多くなることが、引き出しが多くなると言って喜びます。しかし、子どもは教材や指導法を見ているのではありません。それを使っている教師を見ているのです。少なくともクラスの2割はそういう子です。そして、その子はクラスの子どもから一目も置かれる存在です。
さて、最初に書いた例が何を意味しているかお分かりになったと思います。様々な教材や指導法を理論なく使えば、その様になってしまうのです。その人に「何でその教材を使うのですか?と聞いたら、「だって、子どもたちが喜ぶから」と応えます。
いわゆる勉強熱心な先生の中に、残念ながらその様な方がいます。仕方がありません、引き出しが多いことが良いこととする文化の中にいるのですから。しかし、その様な教師に対してクラスの2割はどうみるでしょうか?おそらく、芸人としては評価するかもしれませんが、教師としては評価しないでしょう。それは、最初に書いた料理を出す人が個々の料理が美味しければ料理人としては評価しても、食卓を任せられる人とは思われないのと同じです。そして、芸人として見られる教師は、芸人並みの敬意や影響力しか持ちません。
一方、理論的に語れるか否かは別として、自分なりの軸を持っている人がいます。その様な人は、自分の軸に合わない教材や指導法を拒否します。だから一貫しています。ただ、その人の軸が教科指導以外にも子どもにどのような影響をしているかを意識していない場合が少なくありません。
かなり以前です。ある学校にサポートをしました。その学校のある先生が強硬に『学び合い』に反対されました。授業を見ましたが、一斉指導の能力は高く、周りの先生から一目も二目も置かれているのが分かります。教師が一人一人をぐいぐいとコントロールするタイプです。子どもたちは教師と強く繋がっています。
そこの校長先生は「あの先生は協働を大事にしている。例えば三十人三十一脚などでクラスづくりをしている。なんで、『学び合い』にああも反発するのだろう?」と言っていました。その先生のクラスをのぞいてみました。よく分かります。そのクラスの子どもは教師の目の前で「いい子」を演じています。だから、教師の見えないところで様々な闇が見えます。学活の際にどんなに「みんなでたっせいすることが大事だ」、「仲間を大切にしよう」と言ったって子どもはその言葉を信じません。その教師と最も多く接する時間、即ち、授業時間におけるその教師の言動に基づいて、その教師の言葉を理解します。つまり、「みんなでたっせいすることが大事だ」、「仲間を大切にしよう」とは、自分の目の前で自分を中心として達成することを求める集団を求めていることを察します。そして、それは正しい。
教師は自分なりの理論を持つべきです。では理論とは何か、短い、そして数少ない原理原則を明記することが出来ることです。そして、ありとあらゆる場面で、その原理原則に反しない行動をし続けられることです。それは教科指導のみならず、学校における時間の1分1秒も例外もなくです。
残念ながら、教材や指導法の集合体が理論と思われている。