■ [大事なこと]予言
何度か書きましたが、死に直面した患者がどのような行動をするかという研究したロスの「悲嘆の五段階説」というのは面白いです。
第一段階は、その存在を否認し、たいしたことはないと無視します。第二段階は、怒りで攻撃的になります。第三段階は取引です。第四段階は抑鬱です。そして第五段階が受容です。
『学び合い』は非常に面白いグループ学習だと思って飛びついた人は、しばらくして、自分の大事なところを変えることを求めていることに気づき、無視するようになったと思います。つまり、「『学び合い』。あ、新潟の先生の本で読んだことあるけど、でもね~、あれは理想論だよ」と片付けるのが第一段階です。
3年~4年前から第二段階に達しました。つまり、このまま進むと自分では制御不能のレベルになりそうなので、とにかく潰そうと思います。が、感情的なレベルなので、つぶし方が稚拙です。感情的なので攻撃も稚拙です。何の資料も読まずに表面的なことを感情的に述べ立てます。
最近は第二段階から第三段階に移行しつつあるようにあります。つまり、資料を読み妥協点を探り始めたようです。ただ、出発点が「自分は変わりたくない、納得したくない」なのですから読み方が浅く、不正確です。
では、次はどうなるでしょうか?私にはありありと見えます。「『学び合い』で言っていることは、我々のパクリだ」と言うはずです。その言明の一部は正しく、一部は間違っています。
教育自体は、数百万年以前からホモサピエンスは行っています。我が国の学校教育においても、積算すれは十億弱の人が十数年間の営んでいるものです。ありとあらゆることが起こり尽くしています。優れた教師も多く、多くのノウハウは蓄積しています。『学び合い』で述べていることは100%天地開闢以来はじめてだと主張するつもりはありません。『学び合い』は自然科学をモデルにしています。過去の事実はちゃんと踏まえ、その基礎の上に成り立っています。『学び合い』の始原の形は、優れた教師の姿をモデルにしています。それを整理したものでした。ただし、『学び合い』の特徴は、徹頭徹尾、実証的な学術研究によって記録・分析したものを基礎としています。これがオリジナリティの第一です。不遜ながら申しますが、我が国で全国的に広がった教育実践の中で、実証的な学術研究に基礎づけられている教科学習は、『学び合い』だけだと思います。
私が認知研究から『学び合い』研究に本格的に移行し始めたのは平成9年頃です。初期は優れた教師の姿をモデルにしており、問題意識も現状の教師が思いつくレベルのものです。例えば、どんなグループを形成したら話し合いが活性化するか、などを研究していました。『学び合い』で述べていることは、明治以降の多くの優れた教師の気づいていることです。本を丁寧に読めば、斎藤喜博や大西忠治の本にもその片鱗はあります。しかし、それらは実証的な学術研究によって分析されているわけではありません。
学校現場の先生方は忙しいし、他人のお子さんを預かっているので冒険は出来ません。結果として、常識の範囲を超えることが難しいのです。学術は物事を理論的に考えますので、今までの常識を純化し、推し進めると、こうなる、というものが分かります。そして、我々は一つ一つ検証してきました。そして平成14年ぐらいから、常識から乖離し始めるようになったのです。そして、それを十年以上爆走しているのですから、学校現場で普通に思いつくレベルでは理解不能になっています。ま、それがご批判の原因なのですが。
ですので、「『学び合い』で言っていることは、我々のパクリだ」と主張しても、現実には違いがありすぎるので無理があります。そうなると第四段階に移行します。さて、いつ頃になるでしょうか?
ま、いずれにせよ、感情的な議論の第二段階よりは、少しは勉強した人の第三段階の方がやりやすいです。妥協点は、週1の合同『学び合い』だと思っています。