■ [大事なこと]攻撃
第三者からもよく分かるある人を攻撃する人がいます。気持ちは分かります。私を攻撃する人も含めてです。そして、可哀想だな~と思います。自分が直接攻撃されていない個人を攻撃するのは生物学的には異常です。おそらく、自分の現状の不満を別な人にぶつけて合理化したいのだろうなと想像します。
それを継続している人がいます。気持ちは分かります。私を攻撃する人を含めてです。そして、愚かだな~と思います。攻撃する人は、自分が攻撃された時にどうなるかを考えていません。だから、自分が個人特定される攻撃されると激情し、自壊します。論争の勝敗は、自分の味方ではなく、自分の敵ではなく、どうでも良いと思っている中間層なのです。そのためには品良くやらねば。
幸い、私を攻撃する人は下品なので、ありがたい。一番良いのは、個人特定する攻撃をやめれば良いのに。ま、感情が前に出て、自己コントロール出来ないのですから、しかたありません。
■ [お誘い]仙南の会
10月29日に大河原駅ちかくで『学び合い』の会があります。http://manabiai.g.hatena.ne.jp/g5o0t9o9/20140928
■ [大事なこと]道徳
本屋に行って教育関係の棚を見ると、今のトレンドが分かります。おそらく、何段も道徳関係の本が置かれていると思います。この状況は数年前ならば考えられない状況だと思います。私は1990年代を思い出します。
総合的な学習の時間は平成12年(2000年)に本格的に導入されました。それを見据えて、総合的な学習の時間の実践研究の発表会が日本全国の先進的な学校で行われました。そこには全国の教師が集まり大盛況でした。書籍も多く出版されました。今の道徳のレベルではありません。大型書店の場合、本棚一つがまるまる一つ総合的な学習の時間関連の本で埋まりました。私の勤務する上越教育大学は全国から現職教員が大学院生として派遣されました。そして多くの教師が総合的な学習を研究しました。
さて、今はどうでしょうか?中型レベルの書店の場合、総合的な学習の時間の本を見いだせないと思います。ICTや小学校英語に総合的な学習の時間の名残を見いだすことは出来ますが、総合的な学習の時間として前面に出された研究会が最近あるでしょうか?
1990年代の総合的な学習の時間の隆盛は、朝鮮戦争による特需のようです。ところが今の道徳はバブルのようです。つまり実態があまりなく、一部関係者の「これからは道徳だ!トレンドだ!」という声は騒がしいですが、それに伴った実態がありません。何故でしょう。それは、「総合的な学習の時間」は耳慣れない言葉で、何をして良いのか分からないのに対して、道徳は以前からやっていました。
教科化と言っても、多くの教師にはぴんときません。「検定教科書の使用」、「評価観点」、「教員免許」のいずれも、どうなるかハッキリしません。そして、現職教員にとっては、そう言われたら、それに対応すればいいレベルのことです。強いて違いを挙げるとしたら、今まで他の時間に置き換えていたけど、それを時間数だけしっかりと道徳をやること、と思っているのだと私は思います。だから強いて今必要なのは直ぐに使える教材のストックです。
皆さん知っていましたか?今、世の中に出版されている道徳関係の本の中で、商業的に成功した本は殆ど無く、一つのシリーズが一人勝ちの状態です(おそらく、どのシリーズかは分かりますよね)。これが現状の道徳がバブルであって特需で無いと思うゆえんのことです。
これまた意外だと思いますが、西川ゼミでは十年ぐらい前から『学び合い』道徳を研究し、実践しています。『学び合い』は教科学習を中心のフィールドとしています。理由は頻度は高いですし、評価がハッキリできる点です。しかし、限界もあります。それは内容が教科の内容である点です。そのため、人の生き方、人格の完成を大きな視点で俯瞰するには縛りが大きい。『学び合い』道徳は『学び合い』の教科の『学び合い』の基礎の上に、大きく花開くものだと私は思っています。
では、どうするか?
現状の道徳のニーズは、直ぐに使える実践例集です。しかし、『学び合い』を全面的に取り入れ、その基礎の上に年間を通して『学び合い』道徳をする人は殆どいないと思います。しかし、教科における『学び合い』には抵抗はあるけど、道徳の『学び合い』だったら「あり」と思う方は少なくないと思います。そして、道徳を 全面的に『学び合い』ではやらなくても、たまに取り入れるのだったらOKという方は少なくないと思います。
だから、現状既にやっている道徳の実践を、『学び合い』の手法で簡単に新たな実践に変換でき、かつ、今までには見られない子どもの反応が生まれることを分かってもらえるような情報が世の中に必要なのです。
総合的な学習の時間は、「総合的な学習は何を育てたいのか?」、「遊びとどう違うのか?」、「教科の時間を削ってもやる必要があるのか?」という批判を受け時間数は削減されています。それは道徳の時間も同じように問われるでしょう。しかし、我々にはそれに対する応えがあります。それが学校観です。それを心ある道徳の実践者に伝えたいと願っています。