■ [大事なこと]出張
私の叔母は、結婚も遅く、子どもは授からなかった。私を含めて多くの甥、姪に多くの愛情と時間と金を費やしくれた。その叔母は「子どもは育てされてもらっている」とよく言っていた。私は40歳で子どもを授かった。39歳の時、家内の体の中に生命が息づいていることを知ったとき、嬉しくって腰を抜かした。
幼稚園の先生は息子を障害児と認定しているようだった。分かる面があるが、認めなかった。息子は中二なり、受験の心配をする頃になった。ありがたいことだ。しかし、息子はこれからの人生の中で様々な困難に出くわすだろう。親として、「子どもは育てされられてもらっている」と思う気持ちに揺らぎは無い。
ただ、我が命がつきたあと、我が息子の幸せを保証したいと思う。もちろん、親が子にすべきことをしたい。でも、それと同時に、一人も見捨てられない社会を実現したい。
そうか、今、私が出張しているのは、そのためだ。と思いたい。
■ [大事なこと]嬉しい、う~ん
本日は午前と午後に一校ずつまわった。両方ともホーム感満載の学校だった。当然ながら嬉しい。しかし、ホテルに戻ってから、う~ん、と思う。
『学び合い』を取り入れようという学校は、きわめて健全です。職員集団のコミュニケーションがある。子どもは「良い子」です。各学校なりの問題はあるでしょう。しかし、それを気づかないふりをすれば、それで何とか出来るレベルなのです。このレベルなのに、意識改革を求める『学び合い』を学校として取り組むなんて凄い、と思います。
逆に、時限爆弾のように、学校崩壊(学級崩壊ではありません)になるハッキリとした兆候があるにもかかわらず、とりあえずの見てくれを良くするレベルの対策しかしない学校があります。
『学び合い』の真骨頂は、学級崩壊や学校崩壊を立て直すことが出来ることにあります。どこが問題のツボどころかを分かれば、それらは魔法のように変わります。たとえ話ですが、風呂に穴が開けば水はたまりません。この根本的な解決策は、穴をふさぐことなのです。ところが、水がたまらないのは何故かという問いかけをせず、水がたまらないという現象を何とか解決しようとするならば、ためる水の水量を増やすことしか思いつかないようなものです。
しかたがありません。根治療法を考えられるレベルの学校、管理職、職員ならば、誰かが「何故、風呂に水がたまらなくなったのか?」という至極当然の疑問を持ちます。管理職の在任期間が3年、いや2年であれば、とりあえず見てくれを良くして、問題の先送りをしたくなるのが人情です。
日本の教育の病巣を感じます。
学校の責任者は校長です。と、法規上なっています。しかし、教育委員会の「指導」を受けることになっています。この段階で責任が曖昧になってしまっています。校長は教育委員会の指導に基づきと言って、教育委員会は我々がやっているのは支援であって最終決定は校長だと言ったとしたならば・・・・・
この線引きが法規上、曖昧になっています。まあ、日本の良いところは曖昧なところです。でも、集団無責任体制になっては駄目です。
今の段階では、何かを言われたとき、ちゃっと説明できる管理職、実践者によって『学び合い』は成り立っています。しかし、個人の熱意で成り立たせるのでは無くシステムで成り立たせるにはどうしたいいか、を考えます。
これを考えられる同志に訴えます。私が出来ることはやります。人の数倍以上はやります。でも、私が出来ないことはお願いします。