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2015-01-02

[]口伝 19:45 口伝 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 口伝 - 西川純のメモ 口伝 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 何度も書いたことですが、最も成功した宗教は自然科学です。自然科学は宗教ではないと思い込んでいたとしたら、完全に宗教にとらわれています。ちなみに数学すら宗教です。幸いラッセルはそれを看破しました。

 我々が正しいと思い込んでいること、それは宗教なのです。それを理解した上で、自分の信仰している宗教にはどんな特徴があり、どんな境界条件(適用できる範囲)があるかを理解すべきです。

 新興宗教は説明責任があります。浄土真宗には教行信証があります。日蓮には立正安国論があります。道元には正法眼蔵があります。いずれも高校時代に読みました。現代語訳の法華経を読んだときの「なんだこりゃ?」を十分に納得させるものであり、全て素敵でした。大学に入ってプリンシピアを読みましたが、似たような感覚で読みました。反対する人に対しての説明が多いのです。辛かったのですね。

 以上にあげた方に関して比すのはおこがましいですが、似た感じをしています。分かった人には不必要なこと、分からない人には説明不足なことを書いています。

 面倒ですし、辛い。

追伸 私の宗教は葬式仏教を超えません。

[]一人も見捨てない 16:15 一人も見捨てない - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 一人も見捨てない - 西川純のメモ 一人も見捨てない - 西川純のメモ のブックマークコメント

 「一人も見捨てない」ということに関してゼミ生に聞かれたときの話を書きます。

 このことを説明するには初級編と中級編、上級編があります。まず、初級編の場合は本に書いていることです。つまり、それを諦めた方が良いかを子どもたちに問いかけ、「一人も見捨てない」よりも「一人も見捨てないことを諦めない」ことが大事であることを語るべきなのです。そして、教師自身が暗くならず、もっと褒めることが大事なのです。これが初級編の説明です。

 相手が中級者であるならば、別な説明をします。まず、得と徳の違いを述べ、一人も見捨てないは全ての人に得であることを教師が理解する必要があります。おそらく、納得できないでしょう。そこでそれを悩んでいる人に、悩んでいる子どもの実態を語ってもらいます。私はその子を見捨てないことがクラス全員に得であることを説明します。ま、全方位で駄目な子はなかなかいません。そして全方位で駄目な子だとしても、その子を見捨てないことが全員に得なのです。

 これを理解するには「徳」の残滓をすっぱりと捨てきらなければなりません。つまり、「一人も見捨てないふり」でいいことを理解しなければならないのです。つながりを100にするか1にするか0.1にするかは自由です。しかし0にすることは損です。「ふり」で結構です。その「ふり」を捨ててしまえば、限りなく集団は崩れます。

 テレビ報道からは、即死刑、それもじわじわと拷問死させたいやつがいます。しかし、そんなやつでも裁判はしなければならないし、拷問は駄目だということを堅持する方が、それを捨て去ることよりは中長期的には社会にとって得です。一度、一線を越えてしまえば際限なくなりますから。

 みんながこれを守るならば、0.1も三十倍にすれば3になります。

 以上が中級者向けの説明です。

 では上級者向けの説明はどうするか?

 ゼミ生に「一人も見捨てないを子どもに求めると問題が起こると思っている人がいますが、先生はどう思いますか?」と聞かれたときです。そのゼミ生は私が「一人も見捨てない」ことを額面通り信じていることは分かっていると思います。

 私が言ったことは「私がみんなに一人も見捨てないことを求めたことがあるか?」と聞きました。ゼミ生は首を振ります。満面の笑みをたたえて「私がゼミ生に一人も見捨てないことを求めた方が良いか?」と聞きました。ゼミ生は「気持ち悪い」と応えました。そこで説明しました。

 私がゼミ生に求めることは、「自分の心に響き、多くの人の心に響く教育研究を通して、自らを高め、一人も見捨てない教育・社会を実現する」であり、このことが自分にとって「得」であることです。「一人も見捨てない」なんて言いません。

 西川ゼミは非常に間口の広いゼミです。来るものは拒まず、去る者は追わず、です。手のかかる子はいます。少なくとも私が中長期で関わるクラスにおいて、小中の先生方が手がかかって頭を抱える程度の子「も」います。では、何故、「一人も見捨てない」ことを求めていないのか?

 第一に、私がゼミ生に求める課題は中長期の課題だからです。一人も見捨てないが問題が起こるとしたら、それは毎日、毎日、短期の課題を出しているからです。学校現場だって、定期テストの結果ぐらいを求めるならば、それを言葉に出す頻度は少なくてすみます。

 第二の理由です。「一人も見捨てない」を私が何度も言わなくて言い理由は、それがゼミの文化になっているからです。新入ゼミ生もその文化の集団の中に入るから、そういうもんなんだと分かります。

 では、私は何もしていないのか?しています。

 第一に、週1で『学び合い』に関しての議論を徹底的にやっています。その姿はユーチューブでアップしています。小中高でも子どもたちに『学び合い』の本を公開し、それに対して徹底的に議論する時間を設ければ良いのにと思っています。

https://www.youtube.com/user/TheNishikawalab/videos

 第二に、自分たちのゼミが日本の教師や子どもにどのような影響を与えているかを実感させる場を設けています。具体的には、毎年、上越に来るお客さんの世話をさせて、話させる機会を設けています。小中高の子どもたちにも、自分たちの活動が社会的な意味を持つと感じさせることが出来れば、エンジンの掛かり方が違います。つまり、自らが毎日情報発信をして、講演し、本を書くべきなのです。

 第三の理由です。私は個に拘ることを捨てています。というか・・・・どう言っても誤解されると思うのですが。一人も見捨てないということを実現するには、教師は個に拘らないことに徹するべきであると悟りました。上記のことをやっても捨てている個はいます。それは西川ゼミもです。でも、そこで私が個に救いの手をさしのべることは、問題を大きくするのです。私が出来るのは、より大きな集団を作ることに徹するべきだと考えています。もちろん、申し訳なく、涙が出ることがあってもです。そして、嫌われ、非難されてもです。

 というのが上級者向けの説明です。

 このあたりは『学び合い』を極限まで進めた人しか分からないと思います。ゼミ生に口伝で伝えようとしても難しい。中途半端なヒューマニズムで否定されるのが落ちですから。