■ [う~ん]オールマイティ
息子の勉強している背中を見ながら自宅パソコンで仕事をしています。そして、息子の集中が途切れていることを後ろ姿から見取ると注意します。やになります。
息子が今やっている勉強は、息子の将来に役立ちません。息子の興味関心の赴くままに本を読ませ、経験をさせた方が息子の将来に役立ちます。が、日本には受験があり、その受験を通らないならば将来の入り口に立てない。少なくとも入り口に立つのは難しくなるし、その後も苦労が多い。馬鹿馬鹿しい内容であるが、それを乗り越える能力があるかどうかは受験で問える。しかし、一人一人の才能を殺してしまう可能性がある。
小説家になる才能のある子に微積分を教えて何が意味があるのだろうか?
フィールズ賞を獲得できる子に「あり、おり、はべり」を教えて何が良いがあるのだろうか?
無いとは言いません。しかし、有限の資源を配分するとき、効率が悪い。その時間に多くの小説を読ませ、多様な人生経験をした方が良い。その時間に問題を解かせ、大学の数学の本を読ませ、大学の数学者と議論させた方が良い。これは他の方面に行く人だって、そうです。
また特別な支援を必要な子どもの場合はもっと深刻です。その子の才能を見いだすことにもっと時間と手間をかける必要があります。全てにおいて健常児並みのことを目指しても無理だし、結局役に立ちません。そして、それによって自分は駄目だという気持ちを持たせてします。彼らの出来ないことを受容し、むしろ彼らの得意なことで活躍できる場面を多くした方が良い。
日本中で国の宝の子どもたちが、無意味なことにその時間をエネルギーを消費している。
■ [大事なこと]意味が無い
これこれは大事、というのはとても簡単なことです。少なくとも、その教科の中で生きていくことだけだったら。でも、これも大事、あれも大事とみんなが言い立てれば、結局、総花的なものしか出来ません。そして、その被害は子どもたちに行く。
その教科の中の人が、これはそれほど大事では無いと言う勇気を持つべきだと思います。
西川純、小林学(1985.10):戦後の経済・産業界の教育に関する要望・意見の変遷、科学教育研究、9、日本科学教育学会、100-106
西川純、新井郁男、熊谷光一、田部俊充、松本修(1997.8):生涯教育から見た各科教育、学校教育研究、12、日本学校教育学会、136-147
西川純、新井郁男、熊谷光一、田部俊充、松本修(1998.7):生涯教育から見た各科教育(その2)、学校教育研究、13、日本学校教育学会
西川純、北島克浩(1999.3):保護者から見た理科への評価、科学教育研究、23、日本科学教育学会、50-58
西川純(1999.9):「学ばなければならない科学」からの脱皮、科学教育研究、23、日本科学教育学会、382-384
このような主張が大事であることを認めるのは一般的に嫌がります。でも、それが大事で望まれているのかは、自分に置き換えれば自明です。例えば、学校での書類です。あれも、「これは大事」と言う人ばかりで、それは大事では無いと言う勇気をみんな持たないために現状があるのです。
河野太郎という人は上手いことを考えました(http://www.taro.org/2014/11/post-1546.php)。こんなことを我々がしなければならないのです。
これこれは大事、というのはとても簡単なことです。少なくとも、その教科の中で生きていくことだけだったら。