■ [大事なこと]脱知識偏重
文科省が脱知識偏重を打ち出している。これは多くの人が以前から言っていたことだ。しかし、行政がそれをハッキリ打ち出し、それに対する施策を出しつつあることに意味がある。行政は失敗は許されない。だから非常に慎重に動く。しかし、もうそれしか日本の生き残る道はなくなったんだろう。単純な労働や、単純なサービスでは生きられないから。
でも、カリキュラムをいじくっても学校現場がいくらでもやったふりをするから実効性はないだろう。一番良いのは結果を求めめる。一番簡単なのは、コンピュータでインターネットを利用できる環境でテストをすれば良いと思う。こうすれば単なる知識問題は出せなくなる。そしてグループで問題を解くのです。
もう少し具体的に妄想します。
国語、社会、数学、理科、英語の5教科のそれぞれに1日を費やすのです。子どもたちは6人ぐらいのグループにします。グループ構成は同じ学校の生徒が混じらないようにするのです。そして、グループ構成は、毎日変わります。子どもたちは試験会場で自分のグループを見つけ、その部屋に行き初対面の人たちと出会うのです。そこには課題が置かれています。それは現在でもハッキリしない問題です。例えば、「邪馬台国が日本のどこにあったと考えるか?」のような問題です。子どもたちはコンピュータを駆使して情報を収集し、議論し解答を作成するのです。その様子は映像で記録されます。
大学は解答を採点し、その総合で足切りをします。その上で映像を精査し、面接を行い合否を判定します。
ものすごく大変です。が、これをやれば単なる知識偏重の子は生きていけません。人との協調性の無い子は生きていけません。しかし、一流大学の研究者が自らの研究室に欲しい人材を見いだすのには有効です。そして企業が欲している人材を見いだすのには有効です。
もし一流大学がこの方法を採用したらどうなるでしょうか?今の高校教育は瓦解します。そして、それは一流高校に波及するでしょう。だって、一流大学に入るから一流高校なのですから。そうなれば今の中学校教育は瓦解します。
インターネットで検索すれば答えが直ぐ出るような知識量で高等教育に対する適正をはかっていること自体馬鹿馬鹿しいと思います。
当然、以上のようなテストでは手が出ない子もいます。しかし、そのような子はもともとアカデミズムの方向に進まなければ良いのです。高学歴が良いという馬鹿馬鹿しい幻想を脱し、多様な方向に進めば良い。感性と技術によって生きる道において、いくらでも花開くはずです。
怖いことですが、それは大学も同じです。上記のテストに耐えられる子どもを獲得できない大学は、大学としてなりたたなくなります。
追伸 そういえば私の大学の授業がほぼ同じであることに気づきました。