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2015-03-28

jun24kawa20150328

[]プレゼント 14:22 プレゼント - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - プレゼント - 西川純のメモ プレゼント - 西川純のメモ のブックマークコメント

昔のものを整理したら、こんなものが見つかりました。直ちにラミネートして、スキャンして保存しました。小学校低学年の時に母の日のプレゼントとして家内に息子が贈ったものです。このなかで「パンパンやめろけん」の意味が分からないと思います。息子は運動会の「よ~い、ドン」のドンの音を怖がります。そこでパティーのクラッカーで慣れさせようとしました。それを嫌がりました。

 「パンパンやめろけん」、「あそぼうけん」とも自分の利害に基づくものです。おもしろいな、と思います。また、夫婦の宝物が出来ました。

[]自己満足 08:44 自己満足 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 自己満足 - 西川純のメモ 自己満足 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 ある同志が保護者から、あなたの自己満足だと言われたそうです。では、自己満足か否かを考えましょう。

 当人が満足するものを求めることに何も問題はありません。大事なのはそれが「当人だけ」の満足ではあっては駄目なのです。保護者が教師の自己満足だと言うのは、教師の満足を満たしていないからです。でも、保護者が満足を求めることに何も問題はありません。では、両者が一致しないとき、その是非を決めるものは何か、

 それは結果です。テストの結果であり、入試の結果です。それを出せないならば、自己満足のそしりは甘んじて受けなければなりません。それが嫌ならば、まずはそこに結果を出すべきです。『学び合い』であるならば、ちゃんと求め、結果に繋がる課題を与えれば、今よりも高い結果を出せることは100%確実です。だって、寝ている子も寝なくなるのですから。ごく当たり前のことです。結果を出せないのは、求めていないこと、それもハッキリと求めていないことか、自身の教科のこだわりにとらわれているかです。とらわれているならば、事実、自己満足です。

もう一つは「法」です。

 極論を言えば、天動説を教えるべきだと法が定めた国においては、教師は公教育において天動説を教えなければならないのです。教師の判断で地動説を教えてはいけません。どうしても地動説を教えるべきと考えるならば、教師という職を辞し私人として教えるか、法自体を変えるよう運動をすべきです。

 私はかなり過激なことを主張しているように見られていますが、法をちゃんと確認しています。ポイントなることは、教育法の専門家に確認しています。そして、理論武装しております。

 例えば、昨日、ある学校の来年度の授業をどうするかを話し合いました。そこで、受験で結果を出すために、徹底的に受験を中心にした授業をするべきだと申しました。そして、実験、観察はそんなにやらなくてもいい、と申しました。それを聞いたある方は「え~」と声が裏返ってしまいました。ま、そうでしょう。理科人の中で実験が大事でないと思っている人なんて日本中でも数人レベルでしょうね。でも、私は思いつきで申しているのではありません。学術データに基づき、実験、観察がそれほど意味がないことを知っているのです。正確に言えば、学力の高い子どもには意味があるのですが、そうでない大部分の子どもにとっては手品以上の意味はありません。つまり、面白いかもしれないけど、知識・技能の獲得には繋がりません。理科の学力がある子どもだった理科人にはそのあたりが分かりません。

 学習指導要領には実験、観察をするように書いています。前は実験、観察を通してという表現でした。これは大きな変化です。してもしなくてもいいよというときは、法の条文はそのように書かれます。しなければならないことは、はっきりと書きます。

 ただし、法の読み方を理解しなければなりません。法でしなさいと書かれていることは、絶対にしなければならないのです。しかし、1やるか10やるか100やるかは教師や学校の裁量なのです。法でやってはいけないと書かれていることは、やってはいけません。しかし、やってはいけないと書かれていないことをやっても良いのです。このような法の読み方は大学院の時代に、文部省(現在の文科省)の教科調査官だった私の指導教官から教えてもらいました。学習指導要領を読むと面白いですよ。「観察、実験を行い」と書いてあるところと、「観察、実験を通して」と書いてあるところがあります。これは思いつきやレトリックではありません。ちゃんと考えられて書かれているのです。このあたり感覚を教師は持つべきだと思います。

 大学人になって必要に応じて法を読みますが、実に考えられていると思います。さりげない数値が実によく考えられていると感心することがあります。10やることを求めるときには、必ずそうするように法では書いています。それを書いていない場合は、1やるか10やるか100やるかは教師や学校の裁量なのです。そして学習指導要領には「学校や生徒の実態に応じ,十分な観察や実験の時間,課題解決のために探究する時間などを設けるようにすること。」と書かれています。「応じ」なのです。考えてみてください。

 以下は明治図書で最近書いた課題作り入門の一節です。私が実際に経験したエピソードです。

『私が若い頃の話です。ある学会のシンポジウムに文部省(現在の文部科学省)の教科調査官が来て、新しい学習指導要領の説明をしました。その際、ある先生が学習指導要領のここが悪い、あそこが悪い、だから、私は学習指導要領を無視して、こう教えていると言い始めたのです。はっきり言って喧嘩をふっかけているのです。若い私はドキドキしながら聞いていました。その教科調査官は、やんわりとあなたが教えていることが正しいという根拠は何かを問いました。問いを重ねた結果、その人がそう教えているのは、同僚や校長や保護者や子どもと無関係に、その人が、そう思ってやっていることを浮き彫りにしました。そして、学習指導要領を無視して、その人が思う通りに他人の子どもに教えてよいのは何故かと教科調査官は問いました。その人は「自分は教師だから」と言ったのです。

 そこで、教科調査官は、その人が教師であるという身分を持っているのは、公務員法や教育公務員特例法などの法に基礎があり、それがなければ単なる物知りおじさんに過ぎないことを指摘しました。そして、教師が一定の法に基づくプロセスによって決まった学習指導要領を否定すれば、教師であることを自己否定することを明らかにしました。明らかにその人の負けです。私は学習指導要領が、神の啓示のごとく正しいとは思っていません。しかし、学習指導要領は法に基づく手続きによって定められたものであり、個々人や個々の組織の思いつきで、それを無視することは許されません。

 我々は他人の子どもを教えているのです。保護者から「何故?」と問われたならば、法によって答えなければなりません。法に書かれていないことを他人の子どもに強いたのならば、それを説明出来るだけの根拠を持たねばなりません。つまり「だって、当たり前でしょ」とか、「みんなやっていることでしょ」では駄目なのです。』