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2015-03-29

[]補足 18:23 補足 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 補足 - 西川純のメモ 補足 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 補足を書きます。

 アクティブラーニングはイベント的にやるものではありません、特定の教科でやるものではありません。そもそも「言語活動の充実」という表現によって、国語がやればいいと思われた反省からアクティブラーニングという言葉が生まれたと私は思っています。残念ながら教科学習の学術研究や実践研究の殆どは、教科単位で完結しています。そのため、教科学習全体に適用できる理論やノウハウが殆どありません。

 全教科に使えるものの一つにジグソー法があります。これに関して論文を書いたことがあります。それなりに効果はあります。しかし決定的な欠点があります。それは、ジグソー法の構造に出来る教材は多くはないということです。

 ある実践には理論書がありノウハウ本がそろっています。しかし、二十弱のステップを必要とします。しかし、一般の学校がそんなことすると思いますか?

 理論書やノウハウ本がなく、特定の学校の実践をまねたり、善し悪しを特定の人の判断に求めるような実践もあります。しかし、理論書やノウハウ本がなければ誤解は生じます。

 さて、全教科の全単元に適用できる理論書とノウハウ本がそろっているものがどれだけありますか?

 『学び合い』の会には、小中高の先生、様々な教科の先生、さらには子どもや保護者や企業の人が集まります。しかし、違和感はありません。

 『学び合い』以外に選択肢はない、と不遜にも思います。

[]流れ 18:01 流れ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 流れ - 西川純のメモ 流れ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 アクティブラーニングで先導的な役割をしている方の講演会に参加した同志が、その方の講演でアクティブラーニングの研究者の筆頭に私の名前があることにビックリして、「先生はその方を知っていますか?」と聞かれました。残念ながら存じ上げませんが、非常に光栄に思います。

 でも、何となく分かります。

 何度も書いているように、文科省の掲げているアクティブラーニングとは特定の理論を指すものではありません。今後の日本社会を見据えたとき、今までとは全く違う学力を獲得しなければ日本は生き残れないという問題意識から、教育界に積極的に考え、実践して欲しいという強い、とても強いメッセージなのです。

 と学校が言われても、「どうしたらいいの?」というのが学校現場の本音だと思います。

 不遜ながら思います。

 普通の教師が出来ることで、一定以上の成果を上げられるものがどれほどあるでしょうか?

 普通の教師が出来る、言葉がけ、教材づくり等のノウハウが整理され、本として出版されているものがどれほどあるでしょうか?

 学校レベルでの実践を考える人は、そこを考えます。自分が出来る、ではなく、ごく普通の同僚や管下の職員が出来る実践を探すでしょう。ところが、世にあるものの多くは、出来れば凄いかもしれないけど、それが同僚や管下の職員の多くが出来そうには思えないものです。さらに、やるとなったら「どうしたらいいの?」と同僚や管下の職員から聞かれます。それを一人一人に対して口伝で伝えますか?無理です。

 『学び合い』はその点をクリアーしています。

 しかし一方、既存の授業の延長上にある素晴らしい授業は授業しやすいのですが、『学び合い』はそれとは違います。「変」と思う人がいても当然です。が、それに関してもノウハウは整理され本となっています。それが合同『学び合い』です。

 アクティブラーニング関係で、その全てがそろっているもの、『学び合い』以外に私は知りません。

[]欠けている視点 10:30 欠けている視点 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 欠けている視点 - 西川純のメモ 欠けている視点 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私はどんなテーマを出版社からふられても、たちどころに記事を書けます。年間の連載も、本も、直ぐに書けます。何故なら、今の教育に欠けている視点を持っているからです。その視点で書けば、直ぐにオリジナリティの高い文章が書けます。

 何が欠けているか、それは『学び合い』の学校観と子ども観に対応しています。

 第一は、今の教育は子どもを大人にするという視点が欠けています。一見、あるような言説がありますが、大抵は抽象論で、具体的に今日何をするということを語れません。それがために、学校現場での日々の実践は大人にするという視点が欠けています。あるようでも、小学校で1年、中学校で3年を超えるヴィジョンがありません。小学校は大人にすることは、来年の担任の仕事と考え、とりあえず教科書に書かれていることをちゃんと教えることが仕事と考えています。中学校では大人にすることは高校の仕事と考え、高校では大人にすることは大学や社会の仕事と考え、とりあえず教科書に書かれていることをちゃんと教え、進路を確保することが仕事と考えています。そのため、大人にするということは何かを特段考えず、とりあえず今教えていることを分からせることの「先」に大人があると考えます。

 第二は、自分はどれほどのことが出来るかという視点が欠けています。公的な場では、本の中では、あれも出来てこれも出来ることを求められています。が、現実は何も出来ません。普通の教師が出来ることを提示しなければ、多くの教師は「でも、無理よね」と思います。そして、「みんな無理だと思っている」と思っているので、何もしません。だから、一人の教師が出来ることなんてたいしたことではないということを率直に認め、子どもたちや同僚と一緒になることが大事です。

 私は本を書く際、世間で大事だと言われていることに対して、「それって大人になって意味あるの?そりゃ、意味ある子はいるかもしれないけど、そうでない子もいるよ」と思ったり、教師がしなければならないと言われていることに対して「そんなの無理じゃん、出来るわけないじゃん」と思いながら書きます。多くはみんな薄々気づいていることです。それをハッキリと言葉にするのが私の仕事です。