■ [大事なこと]出会い
4月から学校現場から大学に異動する方々を知り、異動が幸多きことを願います。心から。
大学は恐ろしい世界です。高校から大学に異動して何がビックリしたかと言えば、高校現場に比べて無法地帯なのです。ルールというのが殆ど無く、そのメンバーの合議によって決まります。そして、そのメンバーの合議といっても、ごく少数の意見が通ります。その結果、後出しじゃんけん満載の世界です。自分に都合の良いときは、正論を持ち出し、逆に、都合が悪いと、「ま、そんなに堅いこと言わずに、なんとなくでやろうよ」と言います。そしてルールを決めようとすると、「その場その場で決めよう」というのです。
その中で生き残って行くには、何を持ち出されても勝てるようになるしかなりません。
「白い巨塔」では、大学内のドロドロとした世界を描いています。でも、財前助教授がノーベル医学賞をとっていたら、そんなドロドロは何もありません。ドングリの背比べの実力で勝とうとしたからドロドロの世界に浸かってしまったのです。つまり、抜群に有能というわけではなかった、それが原因です。
だから、私はありとあらゆる方面で業績を出し続けました。でも、それだけでは足りなかった。良き人に出会ったからだと思います。
私は山ほどの論文を書きまくりました。でも、周りからは「品がない」、「フィロソフィー」がないと言われました。それを乗り越えたのは数多くからの学会から賞をいただいたからです。でも、それがとれたのも、今は亡き私のボスの推薦があったからです。
博士担当者になる資格を十分に持って他のにもかかわらず、規定にない博士の学位が必要だと後出しじゃんけんで私をつぶそうとした人がいました。当時、日本の理科教育学の博士の学位を持っている人は5人もいないのに。そして、私が専門としている認知研究では皆無なのに。そこで博士の学位を取れるよう動いてくれたのもボスです。
私より十歳も、十五歳も上の助教授がいっぱいいたのに、最年少記録で教授になれたのもボスが押してくれたからです。
本来は学界の重鎮がなるべき学会誌の編集長になったのも、その前に4年間、ボスが編集長を務め、事務局長を私が務め、その実績を認めた次期学会長が私を選んでくれました。
今の学会長を務めている学会が、日本学術会議から学会として認められる実績を上げられたのも初代会長のボスのおかげです。
そのボス以外の方にもお世話になりました。私が三十歳代で新しいコースを立ち上げ、四十歳代で新しい専攻を立ち上げられたのは、後に学長になった方が私に任せてくれたからです。その方が初めて副学長になった16年前から、ありとあらゆる仕事を私に任せてくれました。そして、それに関するふんだんな情報を与えて貰えました。そのため、普通の教員だったら一生涯気づかなかった大学という組織の仕組みを学ぶ機会を得ました。
そのような方々に出会わなかったら、今の私はどうなっていただろうと思います。
が、今、私の年になってみると、不遜ながら私自身もその方々にとって、良き出会いであったと思います。当時の私は、その方々とは毎日、1、2時間は話し合いました。そして何を考えているかを共有していました。そして、その方々が求めるであろうことは常にシミュレーションをして、情報収集を行い資料を作成していました。だから、その方々からご下問があってから1時間以内に、詳細な資料冊子を提出します。その時にビックリする顔を楽しみにしていました。その方々の動静を理解し、次に行うべきことを整理し提案しました。
私より若い、ある大学人に何度も言うことです。「有能であることよりも、有能であり続けることは遙かに厳しい。男の嫉妬は女の嫉妬よりも執念深い。敵は最小限にすべきだが、皆無には出来ない。皆無にするには、目立たない人生を送るしかない。でも、それは望まないだろう。であれば、敵は仕方がない。大事なのは敵に倍する味方をつくりなさい。それも敵よりも遙かに力があり、知恵のある味方を得なさい。あなたの味方が愚かであるか、賢いか、正しいか、誤っているか、それはあなたが決めること。敵も味方も、あなたがの鏡だから」と申します。
新年度に新たな職場に異動した方々に、年長者からのアドバイスです。
追伸 だから私は何でもかんでも明文化したルールにすることを目指します。一部の人の都合でなんとでもなるようにしないように、です。年長者の義務だと思っています。
■ [う~ん]寄せ書き
昨日のメモを書いた後、懐かしくなって寄せ書きを探しました。ありました。正確には「西川さんは砂漠に洪水を起こすようなエネルギーと小鳥のような精細さが同居していて、私には「こわい」存在でした。でも、このこわさは生徒には好ましいと私は勝手に思っています。ガンバ」とありました。
う~ん、なかなか良いこと書いているじゃん、と思います。
でも、かなりの人は私の酒関係のこと書いています。あの頃は、1年三百六十五日、一日も欠かさず、一升以上の酒を飲み続けていたのですから、しょうがない。
書いていただいた先生の中には鬼籍に入られた方も少なくありません。教授として働いている後輩も複数います。そして、高校教師として今日も子どもたちの前で教えている後輩もいます。今、どういう生活をしているのだろう、と、名前を見ながら思います。