■ [大事なこと]リスク管理

定期的にアップします。心にとめて下さい。大丈夫だよ、と言う人に限って失敗し、私に相談します。そして、だから言ったでしょ、と言いたいのですが、本人が切羽詰まっているので何も言いません。でも、結局、年長者の言うことには従うべきですよ。学陽書房の「何故か仕事の出来る・・・」、「新任1年目を」に書いたことです。
公開であろうと非公開であろうと、結局は公開だと思って下さい。だから、非公開にしている人や、非公開にしているグループを見ていると「危うい」と思います。結局、両者の差はありませんから。だから公開にした方が安全です。公開だと分かるからです。非公開は個人的なメールでやりとりした方がいい。そして、特に非公開にすべきことはメールでは無く、電話で。記録が残りづらいからです(決定的では無いことを意識して下さい)。
何気なく、地元のイベントを紹介する。我が子の運動会を紹介する。自校の研究指定のことを紹介する。同級生の消息を紹介する。それで、あなたの名前は特定されます。そうならないように情報をチェックすることは不可能です。だから、自分の名前は全てオープンにした方がいい。その上で出せる情報を選べばいいのです。
次に、個人特定できる非難は基本的に書いては駄目です。その人と会ったとき、その人があなたのネットでアップした記事を示したとき、大丈夫な状態にすべきです。
次に、ネットで写真をアップすることの危険性を認識して下さい。我が子の写真をアップすることによって、我が子が誘拐される危険性を高めていることを認識して下さい。我が子の写真を加工してヌード写真にすることも可能なのです。これは教え子の写真も同じです。子どもはOKしている、保護者はOKしている、そんなことは身を守れません。考えて下ださい、印鑑証明のある契約書がありますか?いや、あったとしても、「やめて欲しい」と言われたら断れません。私の言っていることは極論ですが、そういう危険性があります。
私はかなり奔放なことを書いていますが、過去にさかのぼってチェックして下さい。
個人特定される非難はしておりません。非難のように見える場合も、逃げ道はちゃんと書いております。我が子、教え子の画像をアップしていません。
私は少なからざる人の神経を逆なですることを書かざるをえません。だから、身を守っています。事をなそうとする人ならば、以上を心にとめて下さい。何かをなそうと思い、行動する人は集団の中で一定数は必要です。そのような人は攻撃の対象となります。その攻撃に負けてはならないのです。
■ [大事なこと]目標

ある目標を実現するために方法があります。その目標は上位の目標の方法になります。方法から見て目標の目標は目的となります。目的は目標より数段抽象度が上がり、自由度が上がります。
私は管理職は目的を語り、目標と方法を管下の部下に任せるべきだと思っています。もし、管理職が目標をかたり方法を任せれば、目標と目的が一致するか否か、また、目標が適切であったか否かの責任は管理職「だけ」が負うことになります。もし、管理職が方法を語るならば、目標と目的が一致しているか否か、さらに目標と方法が一致しているか否か、さらに方法が適切か否かの責任は管理職「だけ」が負うことになります。ところが残念ながら、方法を語っている管理職が、方法の運用の責任を部下に負わせ、そこから目標も目的も部下の責任にしてしまう場合は少なくない。でも、部下はそんなことを認めるわけ無いですから、部下から見放される管理職になります。
分かりやすい例で示します。もし、居心地が良い学校をつくろうとします。具体的には子どもたち同士が挨拶をしあう学校にしようとします。そして、全校の日直が校門に立って全校の子どもたちに元気よく挨拶をするという挨拶運動をするとします。この場合、「居心地の良い学校づくり」が目的で、「子どもたち同士が挨拶し合う学校づくり」が目標で、「日直が挨拶をする挨拶運動」が方法です。
日本中の殆どの学校は、目的や目標を納得させる段階をすっ飛ばして、「日直が挨拶をする挨拶運動」に入ってしまいます。でも、そうすれば子どもたちは「居心地の良い学校づくり」、「子どもたち同士が挨拶し合う学校づくり」を考えず、とりあえず挨拶をします。
もし、目標を納得させ、方法を任せれば、子どもたちは「子どもたち同士が挨拶し合う学校づくり」を意識します。そして、方法の妥当性は自分たちの責任だと考えるでしょう。
でも、本当に教師が「居心地の良い学校づくり」を臨むならば、目標や方法を任せるべきだと思います。
ちなみに西川ゼミの目標は「自分の心に響き、多くの人の心に響く教育研究を通して、自らを高め、一人も見捨てない教育・社会を実現する」で、目的は「日本を変える」です。ま、これだけ抽象的だと、目標も目的もごっちゃみたいですね。ただ、在学中は教育研究という方法を限定し、卒業後はその縛りが外れます。
■ [大事なこと]教育学研究

私はもともと理科教育学が専門です。日本の教科教育学研究の構造的な問題は、「そもそもその教科を学ぶのは何故か」という問いを自らに課さない点です。その教科を学ぶのは当然だという出発点からはじまります。仮に問う場合、その業界の人の中でしか納得しない理屈で泊まります。どんな教材も指導法も、本人が学ぼうとする気が無ければ無効です。そして、教師が手を焼く子は「その業界」の人では無いのですから。
一方、教育学研究の構造的な問題は、それが毎日の授業にどのように具現化するかをという問いを自らに課さない点です。それは教科教育学の仕事であり、自分たちの仕事では無いと考えます。でも、本当に自らが掲げていることを願っているならば、教科教育学にもっと興味を持ち、対話をするはずです。が、戦後になって教育方法学から教科教育学が独立してから、そのような動きはありません。
今、大学は大きな荒波にもまれています。その業界外の人が納得するような、自らの存在価値を主張出来なければ、存在が抹消されるのです。
例えば、「理科」という教科名は、学校教育法にも無く、学校教育法施行令にも無く、学校教育法施行規則にやっと出てくるのです。施行規則は省令ですので、文部科学省の中で合意がなされれば変えることが出来るのです。教育職員免許法には「理科」という言葉がありますが、この法の上位法が学校教育法であることは当然ですので、学校教育法が変われば、それにともなって変更することは自然です。免許があるから、学校教育のカリキュラムが変えられないという論は成り立ちませんから。また、体育という教科が無い国は山ほどあります。というより、体育がある国の方が少ないとも言えます。
もちろん、理科や体育が無くなることは無いと思います。しかし、そう言ってられないのではないかと、思うようになり始めています。